沖縄でせっせと集めた資料に加え、先生や色々な方から戴いた資料、そしてパソコン内に保存してある写真・音声・WEB資料の山・・・。
論文を書くにつれて少しずつ整理して来ましたが、まだまだ・・・先は長い。
本に関して言えば、まだ読んでいない本や、一度は読んだにしても内容を咀嚼し切れていないものが多数。
WEB資料は、正直なところ、信憑性にかけるものが多く、どれを信頼していいのかを区分し切れていない。
文章にするということは、原典の選別がしっかり出来ていないといけない。
まだまだ甘いな~、といった感じ。
とにかく、一度全てをあらってみなければ・・・。
原典の原典にまで当たれば、もっといい資料が出てくるはず。
そこまでやらないといけないのだが、資料が多すぎる上に、内地ではナカナカ手に入らないものが多い・・・。
とりあえず嘆いていても始まらないので、今現在手元にある資料を整理するところから始めよう。
資料ノートとか作ったほうがよさそうだな・・・。
論文を書くにつれて少しずつ整理して来ましたが、まだまだ・・・先は長い。
本に関して言えば、まだ読んでいない本や、一度は読んだにしても内容を咀嚼し切れていないものが多数。
WEB資料は、正直なところ、信憑性にかけるものが多く、どれを信頼していいのかを区分し切れていない。
文章にするということは、原典の選別がしっかり出来ていないといけない。
まだまだ甘いな~、といった感じ。
とにかく、一度全てをあらってみなければ・・・。
原典の原典にまで当たれば、もっといい資料が出てくるはず。
そこまでやらないといけないのだが、資料が多すぎる上に、内地ではナカナカ手に入らないものが多い・・・。
とりあえず嘆いていても始まらないので、今現在手元にある資料を整理するところから始めよう。
資料ノートとか作ったほうがよさそうだな・・・。
沖縄から撤退する直前、1月26日。
南風原文化センターにお邪魔していたときのことです。
通いつめていたお陰、そして、職員さんを捕まえて質問攻めをしていたお陰、そして、TVに少しだけ出たお陰もあり、ここの職員さんには顔を覚えていただき、そして本当に良くしていただきました。
研究会に参加した際に同室だった方が南風原20号壕のガイドさんだった事もあり、本当に縁のある場所。
ここでとても興味深いものを見せていただきました。
人骨です。
人骨本体は見ていませんが、その詳細が書かれた資料と写真を拝見しました。
なぜ見つかったかは・・・これ以上書くと・・・もしかしたら裏情報なのかもしれないので・・・伏せますが・・・。
で、ともかく、色々あって20号壕近辺を整備をしていた際に見つかったそうなんですね。
人骨は2体。
大人の女性のものと、10歳くらいの男の子のものでした。
女性の方は出産の傷があったが、割と若い女性だろうとのこと。
男児の方は学生服のボタンが一緒に出土したことから、学生であろうとのことでした。
その2体の人骨ですが、飯上げの道の辺りに、2体並んで出土したとのこと。
静かに、眠るように並んでいたそうです。
この人骨は出土した時点で、皆が首を傾げたそうです。
なぜなら、どうも人骨がおかしいから。
よく見てみると、体に対して首が上下逆になっていたからだそうです。
有名な、南風原町の某Y先生によると、周りに鉄の破片が散乱していたことから、近距離弾により首が飛んでの即死が直接の死因だということ。
おそらく、顔の原型も留めないほどの傷で、埋める際に向きを間違えたのだろうということでした。
そして、この人骨は恐らく4月ごろに埋められたものだということでした。
・綺麗に埋葬されていることから、戦争が激化する直前であろうということ
・状態からして、誰かが埋めたとしか考えられない。自然に埋まったとは考えにくい。
・戦争が激化しているとしたら、皆、自分の命を守ることに必死だから、他人を綺麗に埋葬している余裕は無い。周りが静かだった証拠。
・当時の農道に埋められていたことから、地元の人が埋めたわけでは無さそう。
これらから、恐らく1945(昭和20)年の4月頃に埋められたものだろうと推測されました。
こういった人骨が出たときは、図面をしっかり残すことによって当時の状況や死亡時期を解明することが出来る。
そのために工事を一時中断してでも記録しなければいけないということでした。
今回の時も、工事の最中に工事員の方が一日の終わりがけに発見したそうです。
そして、ショベルカーで少し削れた状態で人骨が見えていたため、翌日からは工事を中断、手作業で人骨を丁寧に掘り出したそうです。
こういった中断があっても工事費用は発生するもの。
センターのU地さんは、昼夜を惜しんで人骨の発掘に徹したそうです。
業者に頼むとお金が発生するから、だそうです。
発見後に、沖縄県南部は暴風雨に見舞われました。
その際もブルーシートを掛け、骨が流れてしまわないようにと保護したそうです。
沖縄県では、不発弾や人骨が今でも頻繁に出土します。
そのためにお金を掛け続けたら財政も逼迫するというもの。
そのため、某N町では、戦跡にかけるお金が無いという理由から発掘調査等は現在は行っていないとのことでした。
しかし、人骨を丁寧に研究することから、なぜそこに遺骨があるのか?と、より多角的に戦争を研究することが出来るのです。
こういった、地方行政のたゆまぬ努力があるからこそ、63年経った現在でも沖縄戦の研究が続いているのだな、新しい発見があるのだな、と思います。
人骨が出た、供養しないと。
これで終わってはいけないのだな、そう思いました。
彼らも戦争を語る体験者であるということ。
現在の技術で、彼らから何かを聞き取らなければならないということ。
彼らの声を聞き、供養すること。
そこから身元が分かることだって無いとはいえない。
これが私たちが出来うる、彼らへの本当の供養なのかな、そうも思いました。
南風原文化センターにお邪魔していたときのことです。
通いつめていたお陰、そして、職員さんを捕まえて質問攻めをしていたお陰、そして、TVに少しだけ出たお陰もあり、ここの職員さんには顔を覚えていただき、そして本当に良くしていただきました。
研究会に参加した際に同室だった方が南風原20号壕のガイドさんだった事もあり、本当に縁のある場所。
ここでとても興味深いものを見せていただきました。
人骨です。
人骨本体は見ていませんが、その詳細が書かれた資料と写真を拝見しました。
なぜ見つかったかは・・・これ以上書くと・・・もしかしたら裏情報なのかもしれないので・・・伏せますが・・・。
で、ともかく、色々あって20号壕近辺を整備をしていた際に見つかったそうなんですね。
人骨は2体。
大人の女性のものと、10歳くらいの男の子のものでした。
女性の方は出産の傷があったが、割と若い女性だろうとのこと。
男児の方は学生服のボタンが一緒に出土したことから、学生であろうとのことでした。
その2体の人骨ですが、飯上げの道の辺りに、2体並んで出土したとのこと。
静かに、眠るように並んでいたそうです。
この人骨は出土した時点で、皆が首を傾げたそうです。
なぜなら、どうも人骨がおかしいから。
よく見てみると、体に対して首が上下逆になっていたからだそうです。
有名な、南風原町の某Y先生によると、周りに鉄の破片が散乱していたことから、近距離弾により首が飛んでの即死が直接の死因だということ。
おそらく、顔の原型も留めないほどの傷で、埋める際に向きを間違えたのだろうということでした。
そして、この人骨は恐らく4月ごろに埋められたものだということでした。
・綺麗に埋葬されていることから、戦争が激化する直前であろうということ
・状態からして、誰かが埋めたとしか考えられない。自然に埋まったとは考えにくい。
・戦争が激化しているとしたら、皆、自分の命を守ることに必死だから、他人を綺麗に埋葬している余裕は無い。周りが静かだった証拠。
・当時の農道に埋められていたことから、地元の人が埋めたわけでは無さそう。
これらから、恐らく1945(昭和20)年の4月頃に埋められたものだろうと推測されました。
こういった人骨が出たときは、図面をしっかり残すことによって当時の状況や死亡時期を解明することが出来る。
そのために工事を一時中断してでも記録しなければいけないということでした。
今回の時も、工事の最中に工事員の方が一日の終わりがけに発見したそうです。
そして、ショベルカーで少し削れた状態で人骨が見えていたため、翌日からは工事を中断、手作業で人骨を丁寧に掘り出したそうです。
こういった中断があっても工事費用は発生するもの。
センターのU地さんは、昼夜を惜しんで人骨の発掘に徹したそうです。
業者に頼むとお金が発生するから、だそうです。
発見後に、沖縄県南部は暴風雨に見舞われました。
その際もブルーシートを掛け、骨が流れてしまわないようにと保護したそうです。
沖縄県では、不発弾や人骨が今でも頻繁に出土します。
そのためにお金を掛け続けたら財政も逼迫するというもの。
そのため、某N町では、戦跡にかけるお金が無いという理由から発掘調査等は現在は行っていないとのことでした。
しかし、人骨を丁寧に研究することから、なぜそこに遺骨があるのか?と、より多角的に戦争を研究することが出来るのです。
こういった、地方行政のたゆまぬ努力があるからこそ、63年経った現在でも沖縄戦の研究が続いているのだな、新しい発見があるのだな、と思います。
人骨が出た、供養しないと。
これで終わってはいけないのだな、そう思いました。
彼らも戦争を語る体験者であるということ。
現在の技術で、彼らから何かを聞き取らなければならないということ。
彼らの声を聞き、供養すること。
そこから身元が分かることだって無いとはいえない。
これが私たちが出来うる、彼らへの本当の供養なのかな、そうも思いました。
なんと。
IDとパスワードを書いた紙を、紛失するという非常事態に見舞われまして・・・。
沖縄から撤退する際に荷物に紛れ込んでしまったのですね。
今日、無事発見いたしまして、こうして更新できる運びとなりました。
今日は、そんな報告でした。
現在は地元静岡に帰ってきて、論文の準備に追われています。
とにかく、バタバタしながらではありますが、着実に進めております。
長い目で見守ってやって下さいませ!
IDとパスワードを書いた紙を、紛失するという非常事態に見舞われまして・・・。
沖縄から撤退する際に荷物に紛れ込んでしまったのですね。
今日、無事発見いたしまして、こうして更新できる運びとなりました。
今日は、そんな報告でした。
現在は地元静岡に帰ってきて、論文の準備に追われています。
とにかく、バタバタしながらではありますが、着実に進めております。
長い目で見守ってやって下さいませ!
先日、念願の伊江島へ行ってきました。
伊江島は第二次世界大戦当時、「東洋一」と言われた飛行場があったことから、米軍の攻撃の標的となりました。
4月16日明け方に戦闘が始まり、朝8時には米軍が上陸。
4月21日の昼ごろには米軍は掃討戦に突入、そして午後5時半に米軍は伊江島の完全占領を宣言しました。
この戦闘で日本軍4706人、米軍172人の死者が出た。戦死傷者の合計は1120人にのぼりました。
伊江島には戦跡もたくさん残っています。
今回は日帰り日程だったこともあり全て回ることは出来ませんでしたが、その中でも印象的だった場所を紹介したいと思います。
まずは有名な「公設質屋の砲弾壁」。
当時の戦闘の激しさを生々しく伝える戦跡でもあります。
風化はしているものの、当時の様子を静かに語る「戦争体験者」の一人です。
そして、飛行場跡。
車で測ったところ、約2.3キロ、幅は私の足で50歩弱でした。
実際の記録とは違っているとは思いますが、実際に私が測った数字を敢えて書いておきます。
何と広いのでしょう・・・。
読谷北飛行場も広いですが・・・。
読谷飛行場の幅・距離も今度測ってみます。
そして、アーニーパイル碑。
彼は米軍の従軍記者でした。
1944年ピューリッツァー賞を受賞しましたが、翌年、従軍先の沖縄県伊江島にて日本兵に狙撃され戦死しました。
その碑の周辺は芝が綺麗に刈り込まれ、広い場所に碑だけがポツンと立っていました。
そして・・・。
ヌチドゥタカラの家。
ここは阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)氏が基地撤去のために闘い、反戦平和の思いを伝えるため、自費で自宅敷地内に建設した反戦平和資料館です。1984年12月8日開館し、県内外から訪れる人々に戦争の愚かさと平和の尊さを説き続けています。
昌鴻氏は、沖縄県の本部町の生まれです。
17歳でキリスト教徒となり無教会主義に強い影響を受けました。成人して伊江島へ渡り結婚。1925年にキューバへ移民。その後、ペルーへ移り1934年に日本へ帰国しました。
帰国後は京都や沼津で学び、伊江島に帰った後はデンマーク式農民学校建設を志し奔走しました。建設中の学校は沖縄戦で失われ、一人息子も戦死しました。
敗戦後、伊江島の土地の約六割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立ち「伊江島土地を守る会」の会長を務めました。
1955年7月から1956年2月までのあいだ、沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行い、米軍による土地強奪の不当性を訴えました。
2002年3月21日、肺炎で亡くなられました。
ここは、本当に空気が違いました。
それなりの数の戦跡、集団自決の地などにも行きましたが、初めて「震えが止まらない」状態になりました。
数珠の跡が手に残るくらい強く握り締め、震える手を抑えながらメモを取りました。
中には沢山の横断幕や戦中の衣服や薬莢、資料などで埋め尽くされていました。
写真を載せたいところですが・・・。
手が震えていたため、殆どがピントがズレているため・・・。
自筆で書かれたたくさんの張り紙、そして写真とともに語られる歴史。
館の外壁にもビッシリと文字が書かれていました。
そして、同じく昌鴻氏が建てた「団結道場」。
道を走っていると突然現れたその建物は、なんだか只ならぬ雰囲気を醸し出していました。
壁面、壁の裏、トイレ(のような場所)と、壁という壁に聖書を思わせるような・・・キリスト教の教会の入り口に書いてありそうな文句が書かれていました。
ここは島の西部に平和を願って合掌するように建てられています。
1961年7月、会長阿波根昌鴻氏を中心に「伊江島土地を守る会」が設立されました。会では、自分たちの力で土地を守るため、学習の場、村外や県外から訪れる人の宿泊の場として、また戦争をする無知な米軍に人間教育をするための場として団結道場を創ることにしました。
暴行、監禁など幾多の米軍の妨害を乗り越え1970年5月に着工し、9月に完成しました。
1980年までは宿泊研修所として使用されていましたが、現在は伊江島土地闘争の歴史を語り継ぐシンボルとなっています。
今回伊江島を訪れた際、東京の高校生の修学旅行と重なりました。
彼らの言動、行動を見ていると・・・。
戦争の風化は仕方ないことなんだ、そう思わずには居られませんでした。
しかし、そうではなく。
絶対に伝えていかなければならないことだと思うんです。
興味のない子に押し付けることがいいことか?
そういう問題なんだろうか・・・。
じゃぁ、歴史教育なんてやらなくていいと思う。
それに、「負の遺産」を負っているのは沖縄だけではない。
広島、長崎だけでもない。
日本人全員が負っているものだと思う。
伊江島の美しい自然に触れ、悲惨な戦史に触れ、複雑な思いで帰ってきました。
伊江島の戦跡についてはガイドブックも出ています。
『伊江島平和ガイドマップ解説書』財団法人 わびあいの里 出版
沖縄国際大学総合文化学部社会文化学科の石原先生とそのゼミ生の皆さんの作品です。
値段は1000円。
興味のある方は、是非手にとって見てください。
伊江島は第二次世界大戦当時、「東洋一」と言われた飛行場があったことから、米軍の攻撃の標的となりました。
4月16日明け方に戦闘が始まり、朝8時には米軍が上陸。
4月21日の昼ごろには米軍は掃討戦に突入、そして午後5時半に米軍は伊江島の完全占領を宣言しました。
この戦闘で日本軍4706人、米軍172人の死者が出た。戦死傷者の合計は1120人にのぼりました。
伊江島には戦跡もたくさん残っています。
今回は日帰り日程だったこともあり全て回ることは出来ませんでしたが、その中でも印象的だった場所を紹介したいと思います。
まずは有名な「公設質屋の砲弾壁」。
当時の戦闘の激しさを生々しく伝える戦跡でもあります。
風化はしているものの、当時の様子を静かに語る「戦争体験者」の一人です。
そして、飛行場跡。
車で測ったところ、約2.3キロ、幅は私の足で50歩弱でした。
実際の記録とは違っているとは思いますが、実際に私が測った数字を敢えて書いておきます。
何と広いのでしょう・・・。
読谷北飛行場も広いですが・・・。
読谷飛行場の幅・距離も今度測ってみます。
そして、アーニーパイル碑。
彼は米軍の従軍記者でした。
1944年ピューリッツァー賞を受賞しましたが、翌年、従軍先の沖縄県伊江島にて日本兵に狙撃され戦死しました。
その碑の周辺は芝が綺麗に刈り込まれ、広い場所に碑だけがポツンと立っていました。
そして・・・。
ヌチドゥタカラの家。
ここは阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)氏が基地撤去のために闘い、反戦平和の思いを伝えるため、自費で自宅敷地内に建設した反戦平和資料館です。1984年12月8日開館し、県内外から訪れる人々に戦争の愚かさと平和の尊さを説き続けています。
昌鴻氏は、沖縄県の本部町の生まれです。
17歳でキリスト教徒となり無教会主義に強い影響を受けました。成人して伊江島へ渡り結婚。1925年にキューバへ移民。その後、ペルーへ移り1934年に日本へ帰国しました。
帰国後は京都や沼津で学び、伊江島に帰った後はデンマーク式農民学校建設を志し奔走しました。建設中の学校は沖縄戦で失われ、一人息子も戦死しました。
敗戦後、伊江島の土地の約六割が米軍に強制接収された際、反対運動の先頭に立ち「伊江島土地を守る会」の会長を務めました。
1955年7月から1956年2月までのあいだ、沖縄本島で非暴力による「乞食行進」を行い、米軍による土地強奪の不当性を訴えました。
2002年3月21日、肺炎で亡くなられました。
ここは、本当に空気が違いました。
それなりの数の戦跡、集団自決の地などにも行きましたが、初めて「震えが止まらない」状態になりました。
数珠の跡が手に残るくらい強く握り締め、震える手を抑えながらメモを取りました。
中には沢山の横断幕や戦中の衣服や薬莢、資料などで埋め尽くされていました。
写真を載せたいところですが・・・。
手が震えていたため、殆どがピントがズレているため・・・。
自筆で書かれたたくさんの張り紙、そして写真とともに語られる歴史。
館の外壁にもビッシリと文字が書かれていました。
そして、同じく昌鴻氏が建てた「団結道場」。
道を走っていると突然現れたその建物は、なんだか只ならぬ雰囲気を醸し出していました。
壁面、壁の裏、トイレ(のような場所)と、壁という壁に聖書を思わせるような・・・キリスト教の教会の入り口に書いてありそうな文句が書かれていました。
ここは島の西部に平和を願って合掌するように建てられています。
1961年7月、会長阿波根昌鴻氏を中心に「伊江島土地を守る会」が設立されました。会では、自分たちの力で土地を守るため、学習の場、村外や県外から訪れる人の宿泊の場として、また戦争をする無知な米軍に人間教育をするための場として団結道場を創ることにしました。
暴行、監禁など幾多の米軍の妨害を乗り越え1970年5月に着工し、9月に完成しました。
1980年までは宿泊研修所として使用されていましたが、現在は伊江島土地闘争の歴史を語り継ぐシンボルとなっています。
今回伊江島を訪れた際、東京の高校生の修学旅行と重なりました。
彼らの言動、行動を見ていると・・・。
戦争の風化は仕方ないことなんだ、そう思わずには居られませんでした。
しかし、そうではなく。
絶対に伝えていかなければならないことだと思うんです。
興味のない子に押し付けることがいいことか?
そういう問題なんだろうか・・・。
じゃぁ、歴史教育なんてやらなくていいと思う。
それに、「負の遺産」を負っているのは沖縄だけではない。
広島、長崎だけでもない。
日本人全員が負っているものだと思う。
伊江島の美しい自然に触れ、悲惨な戦史に触れ、複雑な思いで帰ってきました。
伊江島の戦跡についてはガイドブックも出ています。
『伊江島平和ガイドマップ解説書』財団法人 わびあいの里 出版
沖縄国際大学総合文化学部社会文化学科の石原先生とそのゼミ生の皆さんの作品です。
値段は1000円。
興味のある方は、是非手にとって見てください。
11月17(土)~18(日)の二日間、本島の南城市で泊り込みの研修交流会があり、参加させていただいてきました。
一日目はエクスカーション、二日目は討論会という日程。
参加者の平均年齢は高いもので、ダントツで一番年下(私の上は34歳、最高齢75歳)・・・。気を遣いっぱなしの一泊二日でした。
■一日目■
・知念「がんじゅうの駅」集合、オリエンテーション
・南城市玉城糸数(アブチラカマのある地区)の戦争について(区長さんの話)
・アブチラガマへ(中には入らず)
・前川の住民避難壕(実際に歩いてみる)
・平和祈念堂の歩み(車内でお話を伺う)
・ひめゆり平和祈念資料館前の「優美堂」でお話を伺う
・沖縄菩提樹苑にてお話を伺う
・出征兵士墓標
・萬華の塔
・山顛毛、監視哨跡、御大典記念碑、壕
・白銀堂
・潮平権現の壕
前川の住民壕。ここは今話題の「集団自決」があったところでもあります。
しかし、ここでオーラルヒストリーの怖さを実感・・・。
以前ここでお話を伺った際には、Aさん(名前は伏せます)のご親族が自決をなさったとの話を伺いました。
しかし、つい先日新聞を読んでいると・・・「親族」が「知り合い」になっていました。
今回説明をして下さった徳元さんもAさんとお知り合いで、そこのことに関して伺ってみると・・・
私と同じく、Aさんからは「親戚」だと聞いているとのことでした。
メディアによって改ざんされたのか、それともご本人がわざとそう答えたのか、間違えたのか・・・。
理由は分かりませんが、新聞というメディアで実際とは違った記録が残されたことが、今後の歴史に何か問題になるのではないかと懸念しました。
そして、潮平の権現壕。
糸満市にあるガマで別名は「スンジャ壕」「スンジャガマ」といいます。
約500人の潮平の住民が3ヶ月間避難し、一人の犠牲者も出すことなく戦後を迎えました(糸満市史編集担当さんの説明では、1名の死者が出たとの事でした)。
地域の人々は感謝の念で権現を建てました。今でも旧暦5月4日には集落で祝っているようです。
地域の教育機関も積極的に平和利用しています。全長150メートル、2層構造の壕。避難していた住民は命こそ助かったとは云え、並大抵の苦労ではなかったようです。
いろいろなドラマ、日本軍による事件もあったと言うことです。
内部は今だに当時の避難民の生活用品が散乱していました。
壕の中にはこんな看板が・・・。
この壕の上部は元々は小高い山だったそうですが、近年の土地開発により山は切り崩され、岩盤が落ちたりもしたそうです。
そのため壕内には泥濘が続き、足場は本当に悪いものでした。
そして屈まなければ通れないほどの場所も何箇所かありましたし、崖のようになっている部分もありました。
そして、鍾乳石が今も成長を続けています。
沖縄の鍾乳石の成長は本土よりも相当早いようで(玉泉洞に行ったら分かります)、天井は刻一刻と低くなっていっています。
そして壕の中にはごく最近捨てられたと思われるごみがたくさんありました。
ここに入る際は、滑りにくい靴・ヘルメット・軍手が必須。
出来れば手持ちの懐中電灯よりもヘルメット固定型の懐中電灯のほうが良さそうです。
そして、その後は夕食会、そして夜なべ談義が行われました。
先生の熱い歓迎により、気付いたときには目の前に泡盛が・・・。
そして何故か乾杯の音頭を取る運びとなり・・・。
風邪を引いていて薬を飲んでいたことも手伝い、いい感じに出来上がってしまいましたw
■二日目■
二日目は朝食の後で討論会が行われました。
時間が短かったため、思う存分・・・とは行きませんでしたが、充実した時間を送ることが出来たと思います。
討論の内容、参加者の意見は・・・
・旅行での南部戦跡の素通り傾向
・修学旅行での南部戦跡の時間短縮(美ら海水族館、首里城、新都心の博物館の創設により、時間が取れなくなってきた)
・「点」での平和ガイドではなく、ストーリー性を持たせたガイドをすることの必要性
・平和発信と観光を分離させない
・行政頼りの住民不在の傾向の打開
・交通面での地域の連携がとれていない
・ガイドの有償化、無償化の問題
・糸満市へのカジノの創設について
このようなことについて話をしました。
大きなまとめとしては
平和を願う=安らぎを得ることにつながる。辛い戦争体験を聞くだけ・見るだけでは、リピーターは減ってしまう。平和学習に加えて癒しを提供することも大切である。
その点で成功しているのが玉城村の「浜辺の茶屋」や糸満市の「真壁ちなー」であろう。
辛い体験のあとの「安らぎ」を大切にしていかないといけない。
負の遺産である「戦跡」に頼りすぎた観光を進めたための現在。
これからは戦跡に頼り過ぎない観光を考えなければならない。
そのためには大きな開発ではなく、小さな動き(私がやっているポストカードの販売など)が大切で、そういった活動をしている人たちが積極的に委員会などを発足していく必要があるのではないのだろうか?
ということでした。
今回は討論時間が短かったこと、時間配分やコース設定などの設定に無理があったこと、企画自体が練りきれて居なかったことなど、目に付く点は多数ありました。
しかし、たくさんの先生方と意見を交換し、私のような若輩者の意見も真剣に考えてくださったこと、貴重な体験をすることが出来、充実した一泊二日の研修会となりました。
まだまだ問題点は多いとは思いますが、これからの課題も浮き彫りとなり、今後の活動の良い刺激になったと思います。
個人的にも、ポストカードの販売について興味を持ってくださった民宿のオーナーさんと知り合えた事や、多くの施設関係者の方と知り合えたことは自分の活動にとってもプラスになったと思います。
全てを記すことはできませんでしたが、こういった内容でした。
一日目はエクスカーション、二日目は討論会という日程。
参加者の平均年齢は高いもので、ダントツで一番年下(私の上は34歳、最高齢75歳)・・・。気を遣いっぱなしの一泊二日でした。
■一日目■
・知念「がんじゅうの駅」集合、オリエンテーション
・南城市玉城糸数(アブチラカマのある地区)の戦争について(区長さんの話)
・アブチラガマへ(中には入らず)
・前川の住民避難壕(実際に歩いてみる)
・平和祈念堂の歩み(車内でお話を伺う)
・ひめゆり平和祈念資料館前の「優美堂」でお話を伺う
・沖縄菩提樹苑にてお話を伺う
・出征兵士墓標
・萬華の塔
・山顛毛、監視哨跡、御大典記念碑、壕
・白銀堂
・潮平権現の壕
前川の住民壕。ここは今話題の「集団自決」があったところでもあります。
しかし、ここでオーラルヒストリーの怖さを実感・・・。
以前ここでお話を伺った際には、Aさん(名前は伏せます)のご親族が自決をなさったとの話を伺いました。
しかし、つい先日新聞を読んでいると・・・「親族」が「知り合い」になっていました。
今回説明をして下さった徳元さんもAさんとお知り合いで、そこのことに関して伺ってみると・・・
私と同じく、Aさんからは「親戚」だと聞いているとのことでした。
メディアによって改ざんされたのか、それともご本人がわざとそう答えたのか、間違えたのか・・・。
理由は分かりませんが、新聞というメディアで実際とは違った記録が残されたことが、今後の歴史に何か問題になるのではないかと懸念しました。
そして、潮平の権現壕。
糸満市にあるガマで別名は「スンジャ壕」「スンジャガマ」といいます。
約500人の潮平の住民が3ヶ月間避難し、一人の犠牲者も出すことなく戦後を迎えました(糸満市史編集担当さんの説明では、1名の死者が出たとの事でした)。
地域の人々は感謝の念で権現を建てました。今でも旧暦5月4日には集落で祝っているようです。
地域の教育機関も積極的に平和利用しています。全長150メートル、2層構造の壕。避難していた住民は命こそ助かったとは云え、並大抵の苦労ではなかったようです。
いろいろなドラマ、日本軍による事件もあったと言うことです。
内部は今だに当時の避難民の生活用品が散乱していました。
壕の中にはこんな看板が・・・。
この壕の上部は元々は小高い山だったそうですが、近年の土地開発により山は切り崩され、岩盤が落ちたりもしたそうです。
そのため壕内には泥濘が続き、足場は本当に悪いものでした。
そして屈まなければ通れないほどの場所も何箇所かありましたし、崖のようになっている部分もありました。
そして、鍾乳石が今も成長を続けています。
沖縄の鍾乳石の成長は本土よりも相当早いようで(玉泉洞に行ったら分かります)、天井は刻一刻と低くなっていっています。
そして壕の中にはごく最近捨てられたと思われるごみがたくさんありました。
ここに入る際は、滑りにくい靴・ヘルメット・軍手が必須。
出来れば手持ちの懐中電灯よりもヘルメット固定型の懐中電灯のほうが良さそうです。
そして、その後は夕食会、そして夜なべ談義が行われました。
先生の熱い歓迎により、気付いたときには目の前に泡盛が・・・。
そして何故か乾杯の音頭を取る運びとなり・・・。
風邪を引いていて薬を飲んでいたことも手伝い、いい感じに出来上がってしまいましたw
■二日目■
二日目は朝食の後で討論会が行われました。
時間が短かったため、思う存分・・・とは行きませんでしたが、充実した時間を送ることが出来たと思います。
討論の内容、参加者の意見は・・・
・旅行での南部戦跡の素通り傾向
・修学旅行での南部戦跡の時間短縮(美ら海水族館、首里城、新都心の博物館の創設により、時間が取れなくなってきた)
・「点」での平和ガイドではなく、ストーリー性を持たせたガイドをすることの必要性
・平和発信と観光を分離させない
・行政頼りの住民不在の傾向の打開
・交通面での地域の連携がとれていない
・ガイドの有償化、無償化の問題
・糸満市へのカジノの創設について
このようなことについて話をしました。
大きなまとめとしては
平和を願う=安らぎを得ることにつながる。辛い戦争体験を聞くだけ・見るだけでは、リピーターは減ってしまう。平和学習に加えて癒しを提供することも大切である。
その点で成功しているのが玉城村の「浜辺の茶屋」や糸満市の「真壁ちなー」であろう。
辛い体験のあとの「安らぎ」を大切にしていかないといけない。
負の遺産である「戦跡」に頼りすぎた観光を進めたための現在。
これからは戦跡に頼り過ぎない観光を考えなければならない。
そのためには大きな開発ではなく、小さな動き(私がやっているポストカードの販売など)が大切で、そういった活動をしている人たちが積極的に委員会などを発足していく必要があるのではないのだろうか?
ということでした。
今回は討論時間が短かったこと、時間配分やコース設定などの設定に無理があったこと、企画自体が練りきれて居なかったことなど、目に付く点は多数ありました。
しかし、たくさんの先生方と意見を交換し、私のような若輩者の意見も真剣に考えてくださったこと、貴重な体験をすることが出来、充実した一泊二日の研修会となりました。
まだまだ問題点は多いとは思いますが、これからの課題も浮き彫りとなり、今後の活動の良い刺激になったと思います。
個人的にも、ポストカードの販売について興味を持ってくださった民宿のオーナーさんと知り合えた事や、多くの施設関係者の方と知り合えたことは自分の活動にとってもプラスになったと思います。
全てを記すことはできませんでしたが、こういった内容でした。
結果報告、でもないですが、実行したので報告いたします。
当初予定していた露店という形での実施。
これは、結局出来ませんでした。
場所を色々と考えてみましたが・・・
①お土産屋さんが閉店した後の国際通り
↓
お酒呑んでる人が大半、そして危険を伴う
②平和祈念公園の敷地内のどこか
↓
事務局を訪ねたところ、販売は全面禁止
③ひめゆり平和祈念資料館周辺
↓
規制が異常に厳しいということで断念
④首里城周辺の地域
↓
既に「露店販売禁止」の看板が・・・。
候補地は残念ながら全滅・・・。
で、露店は難しいのなら、カフェならどうか。
ということで、おきなわワールド玉泉洞近くの、普段からお世話になっているカフェで販売していただくことになりました。
ここのご夫婦は、私の活動にとても興味を持ってくれると同時に賛同してくださっている方なので、快く、というかあちらから販売の話を出してくださいました。
そこで、本来の目的とは変わってしまいましたが販売を開始しました。
ただ、その辺のお土産屋さんとは違うので、実際に私がお店に居るときなら、私がアピールすれば良いのです。
話しかけて、話を聞いてもらえばいいのです。
ここのカフェは、おきなわワールドの近くということでとにかく観光客も多い。そして南部という立地上、平和記念公園などの帰りのお客さんも少なくないということでした。
そして、読谷マップを置かせて頂く読谷村のカフェでも販売決定させていただいています。
こちらに関してはマップ完成と同時に販売も開始しようと思っているので、もう少し後になります。
そして、友達の会社のネットショップでも販売していただけることになりました。
これからも販売店を増やして行き、もし良い場所があったら露店もやろうと思っています。
11月に研究会があるので、その時に資料館や平和団体の方との交流があるので、そこでプッシュしてこようと思っています。
とりあえず、形は変わってしまったものの販売開始いたしました。
販売店情報
《ゆ~ゆ~ら~さん》
℡:098-948-4058
〒901-0616 沖縄県南城市玉城前川420-5
ぐるなび⇒http://r.gnavi.co.jp/f255700/
yahoo!ブログ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/karin131105
《RAINBOW BRIDGE》
℡:098-958-2360
〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2713-94
ぐるなび⇒http://r.gnavi.co.jp/f254600/
てぃーだブログ⇒http://nijikakehasi.ti-da.net/
当初予定していた露店という形での実施。
これは、結局出来ませんでした。
場所を色々と考えてみましたが・・・
①お土産屋さんが閉店した後の国際通り
↓
お酒呑んでる人が大半、そして危険を伴う
②平和祈念公園の敷地内のどこか
↓
事務局を訪ねたところ、販売は全面禁止
③ひめゆり平和祈念資料館周辺
↓
規制が異常に厳しいということで断念
④首里城周辺の地域
↓
既に「露店販売禁止」の看板が・・・。
候補地は残念ながら全滅・・・。
で、露店は難しいのなら、カフェならどうか。
ということで、おきなわワールド玉泉洞近くの、普段からお世話になっているカフェで販売していただくことになりました。
ここのご夫婦は、私の活動にとても興味を持ってくれると同時に賛同してくださっている方なので、快く、というかあちらから販売の話を出してくださいました。
そこで、本来の目的とは変わってしまいましたが販売を開始しました。
ただ、その辺のお土産屋さんとは違うので、実際に私がお店に居るときなら、私がアピールすれば良いのです。
話しかけて、話を聞いてもらえばいいのです。
ここのカフェは、おきなわワールドの近くということでとにかく観光客も多い。そして南部という立地上、平和記念公園などの帰りのお客さんも少なくないということでした。
そして、読谷マップを置かせて頂く読谷村のカフェでも販売決定させていただいています。
こちらに関してはマップ完成と同時に販売も開始しようと思っているので、もう少し後になります。
そして、友達の会社のネットショップでも販売していただけることになりました。
これからも販売店を増やして行き、もし良い場所があったら露店もやろうと思っています。
11月に研究会があるので、その時に資料館や平和団体の方との交流があるので、そこでプッシュしてこようと思っています。
とりあえず、形は変わってしまったものの販売開始いたしました。
販売店情報
《ゆ~ゆ~ら~さん》
℡:098-948-4058
〒901-0616 沖縄県南城市玉城前川420-5
ぐるなび⇒http://r.gnavi.co.jp/f255700/
yahoo!ブログ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/karin131105
《RAINBOW BRIDGE》
℡:098-958-2360
〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2713-94
ぐるなび⇒http://r.gnavi.co.jp/f254600/
てぃーだブログ⇒http://nijikakehasi.ti-da.net/
久しぶりの更新になります。
書きたいことは多々あれど、なかなか言葉に・文字に表すことが出来ないというジレンマから、「書く」という行為から少し離れてみました。
現在行っているフィールドワークの一環として、ひとつ実行に移そうと思って活動中です。
そのために選んだ場所は、沖縄県中部に位置する読谷村。
読谷村と嘉手納町の間にある川・比謝川。
ここから米軍が上陸、沖縄戦が始まりました。
内容は、というと。
読谷マップの作成です。
日ごろからお世話になっているカフェが読谷村座喜味にあります。
ここでとある日の昼下がりを過ごしていたときに思いつきました。
このカフェには、地元の方に加えてゲストハウスを併設していることから県外からの訪問者も少なくありません。
そして、エステも併設しているため、若い方の利用も多く、ゲストハウスに連泊して沖縄でゆっくりと過ごす方も多いのです。
そして、オーナーさんやスタッフさんの話を聞くと、カフェを訪れたお客さんから「この辺で観光できる場所ありませんか?」と訊ねられる事もしばしばあるそうです。
ゲストハウスに連泊している方も同じく。
カフェのオープンが15時からということもあり、オープンまでの時間を潰すのに、近所を散策するそうです。
そこで、考案したのがこの案です。
もともとたくさんの人に沖縄戦を知ってもらいたい、そして、伝えていきたいという想いが私を沖縄移住へと向かわせました。
そこで、読谷村のマップ作成を考案しました。
読谷村の観光地、景勝地、オススメのお店、そして戦跡。
これらを併せたマップです。
マップだけでなく、写真や戦跡の説明、何故私がこれを作ろうと思ったのかなども載せます。
重くなりすぎないように、でも、しっかりと戦跡を巡り、知れるように。
完全なる戦跡めぐりになってしまうと、観光で沖縄を楽しみに来た方はちょっと離れてしまうかな、と。
もともと戦跡巡りを目的として来沖された方は、それなりの資料を用意されていると思うので。
そこで、沖縄戦をあまり知らない方々に知ってもらうために、観光を交えて沖縄戦を知ってもらおうということです。
でも、観光気分で戦跡に行かれたら、遺族や戦争研究をしてる方からしたら迷惑極まりないと言われてもおかしくない。
だからこそ、細心の配慮の元、マップを作成していこうと思います。
これから草案を作成していこうと思います。
読谷を色々な視点から見てもらって、色々な視点から散策してもらって、色々な視点から感じてもらえたら・・・。
そう思っています。
確かに読谷村は少し特殊な地域ではありますが、それを恐れていたらどうにもなりません。
まずは行動。
読谷の知り合いも多いので、たくさんの方の協力を得ての活動となります。
以前募集した詩や写真も使いたいと思っています。
まずは草案作り。
ここでも文章にする難しさを実感。
言葉足らずではありますが、こんなことを企画しています。
ご意見・質問がありましたらどうぞガンガン書き込んでください。
書きたいことは多々あれど、なかなか言葉に・文字に表すことが出来ないというジレンマから、「書く」という行為から少し離れてみました。
現在行っているフィールドワークの一環として、ひとつ実行に移そうと思って活動中です。
そのために選んだ場所は、沖縄県中部に位置する読谷村。
読谷村と嘉手納町の間にある川・比謝川。
ここから米軍が上陸、沖縄戦が始まりました。
内容は、というと。
読谷マップの作成です。
日ごろからお世話になっているカフェが読谷村座喜味にあります。
ここでとある日の昼下がりを過ごしていたときに思いつきました。
このカフェには、地元の方に加えてゲストハウスを併設していることから県外からの訪問者も少なくありません。
そして、エステも併設しているため、若い方の利用も多く、ゲストハウスに連泊して沖縄でゆっくりと過ごす方も多いのです。
そして、オーナーさんやスタッフさんの話を聞くと、カフェを訪れたお客さんから「この辺で観光できる場所ありませんか?」と訊ねられる事もしばしばあるそうです。
ゲストハウスに連泊している方も同じく。
カフェのオープンが15時からということもあり、オープンまでの時間を潰すのに、近所を散策するそうです。
そこで、考案したのがこの案です。
もともとたくさんの人に沖縄戦を知ってもらいたい、そして、伝えていきたいという想いが私を沖縄移住へと向かわせました。
そこで、読谷村のマップ作成を考案しました。
読谷村の観光地、景勝地、オススメのお店、そして戦跡。
これらを併せたマップです。
マップだけでなく、写真や戦跡の説明、何故私がこれを作ろうと思ったのかなども載せます。
重くなりすぎないように、でも、しっかりと戦跡を巡り、知れるように。
完全なる戦跡めぐりになってしまうと、観光で沖縄を楽しみに来た方はちょっと離れてしまうかな、と。
もともと戦跡巡りを目的として来沖された方は、それなりの資料を用意されていると思うので。
そこで、沖縄戦をあまり知らない方々に知ってもらうために、観光を交えて沖縄戦を知ってもらおうということです。
でも、観光気分で戦跡に行かれたら、遺族や戦争研究をしてる方からしたら迷惑極まりないと言われてもおかしくない。
だからこそ、細心の配慮の元、マップを作成していこうと思います。
これから草案を作成していこうと思います。
読谷を色々な視点から見てもらって、色々な視点から散策してもらって、色々な視点から感じてもらえたら・・・。
そう思っています。
確かに読谷村は少し特殊な地域ではありますが、それを恐れていたらどうにもなりません。
まずは行動。
読谷の知り合いも多いので、たくさんの方の協力を得ての活動となります。
以前募集した詩や写真も使いたいと思っています。
まずは草案作り。
ここでも文章にする難しさを実感。
言葉足らずではありますが、こんなことを企画しています。
ご意見・質問がありましたらどうぞガンガン書き込んでください。
最近、良く聞かれるんです。この二つの問題について。
だから、意外と認識されているようでされていないこの問題について少しお話しようかと思います。
以前、シンポジウムに行った時に書いたブログと相違点があるとは思いますが、その後色々と考え、この記事に書く内容に至りました。
間違い見つけた方、ご指摘願います。
私自身の考えなので、そこのところ考慮願います!
【教科書問題】
これは、教科書の沖縄戦記述から「集団自決があった」、「日本軍によって民間人が殺された」という記述を削除するかしないかと言う問題です。
毎年行われる教科書検定で、この記述を削除するようにとの指示が出て、それを反対とする声が上がりました。
【「集団自決」問題】
これは、第二次世界大戦の沖縄戦で、「集団自決」があったかどうかという問題です。
日本軍によって、死を強制されたかどうかってことです。
この二つの問題。
同じようで、実際は独立した問題だったりするんです。
「集団自決」という単語が教科書から削除される。
これによって「集団自決」が否定され、日本軍が民間人に「死」の強制をしたかどうかが問題視されだしたように見えますが、実際は違います。
実は、「集団自決」の有無を問う問題のほうが先に出ていたんです。
「集団自決」の有無を問うのは、いわゆる「大江・岩波(沖縄戦)裁判」です。
これは2005年8月5日提訴に始まります。
そして、教科書検定の「集団自決」削除指示が出たのはというと・・・
2007年3月30日です。
だから
教科書から「集団自決」が削除される=「集団自決」が否定される
↓
「集団自決」は実際に行われたかどうかが争点となっている
↓
史実を歪曲するな!
こうじゃないんです。
教科書検定は4月に行われ、10月に添削が行われます。
ということは、裁判が始まった2005年の翌年・2006年でも添削が出来たわけです。
しかし何故、2006年に行われず、2007年に行われたのか???
2006年と2007年の決定的な違い。
そう、ここの所お騒がせの安部内閣です。
この内閣発足は、2006年9月26日。
この内閣の掲げる「美しい日本」「愛国心」。
ここに問題があったんです。
「美しい日本」を目指す国としては、日本軍が国民を殺したなんてあってはいけないことなんですよね。
ということは・・・
安部内閣発足。キャッチコピー=「美しい国、日本」
↓
日本軍が国民を殺したかどうかという問題
↓
「美しい日本」にそぐわない
↓
この問題が裁判にかけられている
↓
政治が教育に介入することは許されない
↓
裁判を「理由」にこの項目を削除しよう!
ということです。
だから、「集団自決」の有無を問う裁判を利用して、教科書の改訂を実行し、見た目だけでも内閣の目指す方向に日本を向かわせようとするということなんです。
ここで整理しましょう。
【教科書問題】
裁判を理由に、教科書から「集団自決」という言葉を削除することによって、目指す日本に近づけようという「政治の教育への介入」が問題。
【「集団自決」問題】
日本軍によって、死を強制されたかどうかが問題。
【教科書問題】⇒【「集団自決」問題】の派生ではなく、
【「集団自決」問題】⇒【安倍内閣発足】⇒【教科書問題】の派生です。
この【安倍内閣発足】のワンクッションは大きな意味を為しています。
私の考えとしては、教科書から「集団自決」という単語が削除されるかどうかというのは、そこまで大きな意味を為していないと思います。
歴史教科書というのは、縄文時代から現代までを網羅するものです。
だから、歴史の概要・流れを学ぶものです。
だから、詳細な歴史を全て記載することは不可能なんです。
何年後かには、現在の「安部内閣」だって教科書に載るんです。
未来の教科書は私たちが実際にニュースで見ている事件も「歴史」になるんです。
それを考えると、教科書は辞書みたいな分厚いものになってしまうし、それを一年間の授業で全てやるなんて不可能に値します。
だからこそ、少しずつでも細かな内容を削っていかないと、歴史が江戸で終わる、なんてこともありえるんです。
教科書で、「集団自決」が無かったと書いたら、これは史実歪曲になりますが、単なる削除。
削除されたものは、教科書ではなく、他の文献などで残せるものです。
これまでの歴史教科書でも、たくさんの内容が「削除」されてきたことでしょう。
そうじゃなかったら、歴史の授業なんて1年じゃ終わりません。
「集団自決」の有無に関しては下記のHPを見てくださいな。
【http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/index.html】
「裁判の争点」という項目で詳細が記載されています。
私の現在の結論としては、教科書から記述が削除されることが問題なのではなく、政治が教育に介入することが問題だと思っています。
「集団自決」に関しては、あったものと思っています。
こちらに関しては、また今度。
うまく説明できたか分かりませんが・・・。
実際はこんな感じだと思います。
だから、意外と認識されているようでされていないこの問題について少しお話しようかと思います。
以前、シンポジウムに行った時に書いたブログと相違点があるとは思いますが、その後色々と考え、この記事に書く内容に至りました。
間違い見つけた方、ご指摘願います。
私自身の考えなので、そこのところ考慮願います!
【教科書問題】
これは、教科書の沖縄戦記述から「集団自決があった」、「日本軍によって民間人が殺された」という記述を削除するかしないかと言う問題です。
毎年行われる教科書検定で、この記述を削除するようにとの指示が出て、それを反対とする声が上がりました。
【「集団自決」問題】
これは、第二次世界大戦の沖縄戦で、「集団自決」があったかどうかという問題です。
日本軍によって、死を強制されたかどうかってことです。
この二つの問題。
同じようで、実際は独立した問題だったりするんです。
「集団自決」という単語が教科書から削除される。
これによって「集団自決」が否定され、日本軍が民間人に「死」の強制をしたかどうかが問題視されだしたように見えますが、実際は違います。
実は、「集団自決」の有無を問う問題のほうが先に出ていたんです。
「集団自決」の有無を問うのは、いわゆる「大江・岩波(沖縄戦)裁判」です。
これは2005年8月5日提訴に始まります。
そして、教科書検定の「集団自決」削除指示が出たのはというと・・・
2007年3月30日です。
だから
教科書から「集団自決」が削除される=「集団自決」が否定される
↓
「集団自決」は実際に行われたかどうかが争点となっている
↓
史実を歪曲するな!
こうじゃないんです。
教科書検定は4月に行われ、10月に添削が行われます。
ということは、裁判が始まった2005年の翌年・2006年でも添削が出来たわけです。
しかし何故、2006年に行われず、2007年に行われたのか???
2006年と2007年の決定的な違い。
そう、ここの所お騒がせの安部内閣です。
この内閣発足は、2006年9月26日。
この内閣の掲げる「美しい日本」「愛国心」。
ここに問題があったんです。
「美しい日本」を目指す国としては、日本軍が国民を殺したなんてあってはいけないことなんですよね。
ということは・・・
安部内閣発足。キャッチコピー=「美しい国、日本」
↓
日本軍が国民を殺したかどうかという問題
↓
「美しい日本」にそぐわない
↓
この問題が裁判にかけられている
↓
政治が教育に介入することは許されない
↓
裁判を「理由」にこの項目を削除しよう!
ということです。
だから、「集団自決」の有無を問う裁判を利用して、教科書の改訂を実行し、見た目だけでも内閣の目指す方向に日本を向かわせようとするということなんです。
ここで整理しましょう。
【教科書問題】
裁判を理由に、教科書から「集団自決」という言葉を削除することによって、目指す日本に近づけようという「政治の教育への介入」が問題。
【「集団自決」問題】
日本軍によって、死を強制されたかどうかが問題。
【教科書問題】⇒【「集団自決」問題】の派生ではなく、
【「集団自決」問題】⇒【安倍内閣発足】⇒【教科書問題】の派生です。
この【安倍内閣発足】のワンクッションは大きな意味を為しています。
私の考えとしては、教科書から「集団自決」という単語が削除されるかどうかというのは、そこまで大きな意味を為していないと思います。
歴史教科書というのは、縄文時代から現代までを網羅するものです。
だから、歴史の概要・流れを学ぶものです。
だから、詳細な歴史を全て記載することは不可能なんです。
何年後かには、現在の「安部内閣」だって教科書に載るんです。
未来の教科書は私たちが実際にニュースで見ている事件も「歴史」になるんです。
それを考えると、教科書は辞書みたいな分厚いものになってしまうし、それを一年間の授業で全てやるなんて不可能に値します。
だからこそ、少しずつでも細かな内容を削っていかないと、歴史が江戸で終わる、なんてこともありえるんです。
教科書で、「集団自決」が無かったと書いたら、これは史実歪曲になりますが、単なる削除。
削除されたものは、教科書ではなく、他の文献などで残せるものです。
これまでの歴史教科書でも、たくさんの内容が「削除」されてきたことでしょう。
そうじゃなかったら、歴史の授業なんて1年じゃ終わりません。
「集団自決」の有無に関しては下記のHPを見てくださいな。
【http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/index.html】
「裁判の争点」という項目で詳細が記載されています。
私の現在の結論としては、教科書から記述が削除されることが問題なのではなく、政治が教育に介入することが問題だと思っています。
「集団自決」に関しては、あったものと思っています。
こちらに関しては、また今度。
うまく説明できたか分かりませんが・・・。
実際はこんな感じだと思います。
19日、22日に那覇市内の某中学校の平和学習の現場へお邪魔しました。
18日に、校長先生と図書の先生に時間をいただいて挨拶に行って来ました。
日ごろからお世話になっている先生に紹介していただきました。
先生は定年まで校長先生をしていらっしゃり、その頃からのお知り合いということで、その中学を紹介していただきました。
18日、校長先生から沖縄県の平和学習についてのお話を伺いました。
・中学生の平和学習でガマに入ることは少ない。
・高校生になるとガマに入ることは多少はある。
・総合学習という形で糸満市の「平和祈念資料館」へ行くことはある。
・聞き語り、追体験は、島尻の小学校で充実した取り組みがなされている。
・大里南小学校(沖縄県南城市、元・大里村)では、授業の一環として、平和教育を行っている(1~6年まで)。
・子供たちの意識の変化が著しい
10年前⇒自発的
現 在⇒他動的、そしてほとんどやらない
・今は二期制になったことにより、中間テストがあったり、中体連の大会で忙しく、平和学習もなかなか出来ないのが現状である。
ということであった。
たしかに、19日の全体朝会の際も、中体連の表彰も行われていた。
そして、22日の演劇は金曜日に行われ、その翌週からは中間テストが始まるということだった。
現代の中学生はゆとり教育や、授業の制度変更で忙しいのだ。
そして、本題の平和学習の現場に参加して感じたこと。
***19日・読み聞かせ***
この日の読み聞かせは「まぶにのアンマー」という絵本の読み聞かせだった。
図書の先生がマイクで本を読み、図書委員の子供が手作りの巨大絵本を舞台の上でめくっていく、という形だった。
《まぶに》
摩文仁。沖縄県糸満市の部落の名前で、沖縄戦では終盤に追い詰められた兵士や民間人で埋め尽くされ、凄惨な事件が起きた。
《アンマー》
沖縄の方言で「お母さん」の意味。
時間にして約20分。
子供たちの様子は・・・
・遅れてくる子多数
・後ろを向いてしゃべっている子が圧倒的にめだつ
・毛抜き持参で、むだ毛処理をする子まで・・・
・眠っている子多数
・殆どの子は下を向いている
・後方の子は見えていないのだろう
・中盤になると、じっとしていられない子が増えたのか、落ち着きが無い
・最後で、聞いている感じの子が見当たるようになった
・前から3列目くらいまでは絵本を見ながら聞いている子が多かった
まぁ、自分が中学校のときの集会もそんなもんだったかなぁ・・・と思った・・・。
慰霊の日の直前ということで、各学校で思考を凝らした平和学習に準ずる行事が多数されている、との先生のお話があった。
その中で先生は「50年前の~」とお話されたが・・・62年目の今年、的確な年数を述べないのは何故だろう・・・と、少し疑問にも感じた。
私の個人的な意見としては、大型絵本といっても、後ろの子が見えないサイズ。
プロジェクターなどを使い、投影したほうが良かったのではないかと思った。
教室など、少人数で行うには大型絵本は良い方法だと思った。
そして、「読み聞かせ」ということで、本の中に登場する歌は、先生が実際に節つき歌ってくださった。
これは、読み聞かせでしかできないことなので、効果的だと思った。
本の中に出てくる歌は『いったーあんまーまーかいが』と言う歌。
「あなたのお母さん、どこへいったの?」という意味だそうだ。
沖縄の昔からある子守唄だそうだ。
しかし、口伝の歌のため、地域によってメロディーや歌詞も少し違うということだった。
歌詞は地域独特の方言の差で、意味自体は一緒だということでした。
こういう「読み聞かせ」は、全体よりも少人数でやった方が効果的ではあると思うが、時間の問題だろう。
全校でやるのならば、もう少し全体に見えるような工夫が必要かな~と思った・・・。
そして、教室に帰った後で感想文を生徒全員が書き、回収するとのことでした。
しかし、図書の先生の話では、感想も求めているような答えはなかなか返ってこないとのことでした。
読み方の問題だとか、そういう感想が多数で、戦争や平和について考えた、という感想は少数だそうです。
***22日・演劇***
この日は、5・6時間目を使っての演劇鑑賞でした。
父兄参観の形を取っていましたが、参加父兄はまばらでした。
『おばぁの証言』というタイトル。
3年生中心に役者や裏方を募集して、生徒が作った舞台でした。
毎年恒例の劇だそうですが、とても完成度が高く、近隣では有名な催し物だそうです。
脚本・演出・監督は新城先生という先生が担当されているそうです。
この日もやはり遅れてくる子が多く、開始予定時間を10分過ぎて先生が怒鳴るまで話し声が絶えなかった。
黙祷の時間も黙祷している子は少なく、ふざけている子、周りにちょっかい出す子が少なくなかった。
まず、沖縄戦の足跡を話、そこから劇が始まりました。
劇の内容は・・・
①おばぁと孫の会話
ここから、おばぁの回想録のような形で物語が始まる。
②義勇隊の少年と軍曹とのやりとり
日本軍の横暴さを伝えていた
③壕の中の女子学徒隊
患者と看護学徒、軍曹とのやり取り
青酸カリでの「処置」の話
④女子学徒らの嘆き
学徒と婦長とのやりとり
⑤壕の中で女子学徒隊
日本軍の患者の扱い方
母が子供を殺す
軍国主義、皇民化教育の徹底
沖縄県民の被害
⑥おばぁと孫の会話
軍人らも被害者であるとの話
劇の大まかな形としては、明石屋さんま主演ドラマ『さとうきび畑の唄』と同じ形でした。
劇の途中の子供たちの様子は・・・
・笑い声が出る
・暑さのせいか、集中力が途切れ途切れ
・人気者の生徒の登場で指笛
など、目立つ点もありましたが、多くの生徒は劇に集中していたように見えました。
劇の内容について思ったことはというと・・・
まずは、学徒隊を中心とした構成です。
中学生たちと同じくらいの世代で構成されていた学徒隊を中心に劇が展開するのは、子供たちにとって親近感を湧かせる意味でも、とても効果的だと思いました。
そして、舞台上だけでなく、体育館全体を使用した劇ということで、後ろこの子供たちの集中力も維持させる工夫もありました。
一箇所、笑わせる部分もあり、そこで子供たちが集中した感じを受けました。
しかし、考えさせられる部分も多々ありました。
沖縄県での平和学習だったせいか・・・本土でよく言われている「沖縄の被害者意識」を強く感じる部分もありました。
それが悪いという意味ではありませんが、それは、子供たちが劇を観た上で感じるものとすることで、直接的にそれを台詞として表現するのはどうなんだろうか・・・と思いました。
被害者としての沖縄戦。
それよりも、被害を受けた沖縄だからこそ考えられる平和を教えた方がいいのではないかと思いました。
そして、おばぁの設定。
21歳のときに戦争を経験した、その時は学徒隊として戦争に参加したという設定。
ひめゆり学徒隊では、大正14(1925)年生まれが最上級生だったということでした。
そしたら昭和20(1945)年には20歳。
ということは・・・21歳は間違いなのでは・・・?
ただ、どの学徒隊に所属していたのか、ということは台詞の中にはありませんでした。
壕の名前や場所が出てきたわけでもないので特定することはできません。
はっきりとは分かりませんが、もしかしたら設定として間違っているのではないか?と思いました。
浪人っていうこともありますしね。
[Special Thanks⇒kyo-chan]
もしこの記事を読んだ方の中に、21歳でも学徒隊に編入されている可能性がある!という実証が出来るからがいらっしゃったら是非コメントください。
私も詳しいことが分からないので、是非よろしくお願いいたします。
しかし、この演劇は本当に良いものだと思いました。
・青酸カリでの「処置」
・日本軍の住民や患者への態度
・日本軍と現地召集兵の上下関係
・軍から民間人への武器の譲渡(自決問題で扱われた問題)
・壕内の状況
・皇民化教育の徹底
・非国民への対処
・泣く赤ちゃんを自分の手で殺す母親
・自決の強要
といった、現在でも沖縄戦研究で問題となっている部分を存分に取り入れた劇構成。
これは中学生だけでなく、大人にも、研究者にも、そして本土の人、とにかくたくさんの方々に観てもらいたいと思う内容でした。
そして、これを観た生徒たちがどう思ったかは直接聞いてみないと分かりませんが、この劇に携わった子供たちは、沖縄戦について大いに考えたことと思います。
台本を読み、劇の練習をする上で沖縄戦の知識を増やすでしょう。
そして、興味を持つのではないかと思います。
たくさんの子供たちが携わることにより、沖縄戦から世界平和への考えを深めてくれたらな。
そう思いました。
舞台に立つ生徒だけではなく、絵を描いた生徒、衣装を作った生徒など。
全校生徒が何かしらの形で携わることが大切だと思いました。
沖縄での平和学習の現場を見て、私の地元ではされていないような活動を目の当たりにし、衝撃を受けました。
後日、生徒たちのアンケートや感想文を見せていただけるようです。
この感想文を見て、また更に考える部分が出てくることでしょう。
この体験を通して、平和学習・平和教育というものに更に興味を持ちました。
これからの活動に、いいスパイスになりました!!
18日に、校長先生と図書の先生に時間をいただいて挨拶に行って来ました。
日ごろからお世話になっている先生に紹介していただきました。
先生は定年まで校長先生をしていらっしゃり、その頃からのお知り合いということで、その中学を紹介していただきました。
18日、校長先生から沖縄県の平和学習についてのお話を伺いました。
・中学生の平和学習でガマに入ることは少ない。
・高校生になるとガマに入ることは多少はある。
・総合学習という形で糸満市の「平和祈念資料館」へ行くことはある。
・聞き語り、追体験は、島尻の小学校で充実した取り組みがなされている。
・大里南小学校(沖縄県南城市、元・大里村)では、授業の一環として、平和教育を行っている(1~6年まで)。
・子供たちの意識の変化が著しい
10年前⇒自発的
現 在⇒他動的、そしてほとんどやらない
・今は二期制になったことにより、中間テストがあったり、中体連の大会で忙しく、平和学習もなかなか出来ないのが現状である。
ということであった。
たしかに、19日の全体朝会の際も、中体連の表彰も行われていた。
そして、22日の演劇は金曜日に行われ、その翌週からは中間テストが始まるということだった。
現代の中学生はゆとり教育や、授業の制度変更で忙しいのだ。
そして、本題の平和学習の現場に参加して感じたこと。
***19日・読み聞かせ***
この日の読み聞かせは「まぶにのアンマー」という絵本の読み聞かせだった。
図書の先生がマイクで本を読み、図書委員の子供が手作りの巨大絵本を舞台の上でめくっていく、という形だった。
《まぶに》
摩文仁。沖縄県糸満市の部落の名前で、沖縄戦では終盤に追い詰められた兵士や民間人で埋め尽くされ、凄惨な事件が起きた。
《アンマー》
沖縄の方言で「お母さん」の意味。
時間にして約20分。
子供たちの様子は・・・
・遅れてくる子多数
・後ろを向いてしゃべっている子が圧倒的にめだつ
・毛抜き持参で、むだ毛処理をする子まで・・・
・眠っている子多数
・殆どの子は下を向いている
・後方の子は見えていないのだろう
・中盤になると、じっとしていられない子が増えたのか、落ち着きが無い
・最後で、聞いている感じの子が見当たるようになった
・前から3列目くらいまでは絵本を見ながら聞いている子が多かった
まぁ、自分が中学校のときの集会もそんなもんだったかなぁ・・・と思った・・・。
慰霊の日の直前ということで、各学校で思考を凝らした平和学習に準ずる行事が多数されている、との先生のお話があった。
その中で先生は「50年前の~」とお話されたが・・・62年目の今年、的確な年数を述べないのは何故だろう・・・と、少し疑問にも感じた。
私の個人的な意見としては、大型絵本といっても、後ろの子が見えないサイズ。
プロジェクターなどを使い、投影したほうが良かったのではないかと思った。
教室など、少人数で行うには大型絵本は良い方法だと思った。
そして、「読み聞かせ」ということで、本の中に登場する歌は、先生が実際に節つき歌ってくださった。
これは、読み聞かせでしかできないことなので、効果的だと思った。
本の中に出てくる歌は『いったーあんまーまーかいが』と言う歌。
「あなたのお母さん、どこへいったの?」という意味だそうだ。
沖縄の昔からある子守唄だそうだ。
しかし、口伝の歌のため、地域によってメロディーや歌詞も少し違うということだった。
歌詞は地域独特の方言の差で、意味自体は一緒だということでした。
こういう「読み聞かせ」は、全体よりも少人数でやった方が効果的ではあると思うが、時間の問題だろう。
全校でやるのならば、もう少し全体に見えるような工夫が必要かな~と思った・・・。
そして、教室に帰った後で感想文を生徒全員が書き、回収するとのことでした。
しかし、図書の先生の話では、感想も求めているような答えはなかなか返ってこないとのことでした。
読み方の問題だとか、そういう感想が多数で、戦争や平和について考えた、という感想は少数だそうです。
***22日・演劇***
この日は、5・6時間目を使っての演劇鑑賞でした。
父兄参観の形を取っていましたが、参加父兄はまばらでした。
『おばぁの証言』というタイトル。
3年生中心に役者や裏方を募集して、生徒が作った舞台でした。
毎年恒例の劇だそうですが、とても完成度が高く、近隣では有名な催し物だそうです。
脚本・演出・監督は新城先生という先生が担当されているそうです。
この日もやはり遅れてくる子が多く、開始予定時間を10分過ぎて先生が怒鳴るまで話し声が絶えなかった。
黙祷の時間も黙祷している子は少なく、ふざけている子、周りにちょっかい出す子が少なくなかった。
まず、沖縄戦の足跡を話、そこから劇が始まりました。
劇の内容は・・・
①おばぁと孫の会話
ここから、おばぁの回想録のような形で物語が始まる。
②義勇隊の少年と軍曹とのやりとり
日本軍の横暴さを伝えていた
③壕の中の女子学徒隊
患者と看護学徒、軍曹とのやり取り
青酸カリでの「処置」の話
④女子学徒らの嘆き
学徒と婦長とのやりとり
⑤壕の中で女子学徒隊
日本軍の患者の扱い方
母が子供を殺す
軍国主義、皇民化教育の徹底
沖縄県民の被害
⑥おばぁと孫の会話
軍人らも被害者であるとの話
劇の大まかな形としては、明石屋さんま主演ドラマ『さとうきび畑の唄』と同じ形でした。
劇の途中の子供たちの様子は・・・
・笑い声が出る
・暑さのせいか、集中力が途切れ途切れ
・人気者の生徒の登場で指笛
など、目立つ点もありましたが、多くの生徒は劇に集中していたように見えました。
劇の内容について思ったことはというと・・・
まずは、学徒隊を中心とした構成です。
中学生たちと同じくらいの世代で構成されていた学徒隊を中心に劇が展開するのは、子供たちにとって親近感を湧かせる意味でも、とても効果的だと思いました。
そして、舞台上だけでなく、体育館全体を使用した劇ということで、後ろこの子供たちの集中力も維持させる工夫もありました。
一箇所、笑わせる部分もあり、そこで子供たちが集中した感じを受けました。
しかし、考えさせられる部分も多々ありました。
沖縄県での平和学習だったせいか・・・本土でよく言われている「沖縄の被害者意識」を強く感じる部分もありました。
それが悪いという意味ではありませんが、それは、子供たちが劇を観た上で感じるものとすることで、直接的にそれを台詞として表現するのはどうなんだろうか・・・と思いました。
被害者としての沖縄戦。
それよりも、被害を受けた沖縄だからこそ考えられる平和を教えた方がいいのではないかと思いました。
そして、おばぁの設定。
21歳のときに戦争を経験した、その時は学徒隊として戦争に参加したという設定。
ひめゆり学徒隊では、大正14(1925)年生まれが最上級生だったということでした。
そしたら昭和20(1945)年には20歳。
ということは・・・21歳は間違いなのでは・・・?
ただ、どの学徒隊に所属していたのか、ということは台詞の中にはありませんでした。
壕の名前や場所が出てきたわけでもないので特定することはできません。
はっきりとは分かりませんが、もしかしたら設定として間違っているのではないか?と思いました。
浪人っていうこともありますしね。
[Special Thanks⇒kyo-chan]
もしこの記事を読んだ方の中に、21歳でも学徒隊に編入されている可能性がある!という実証が出来るからがいらっしゃったら是非コメントください。
私も詳しいことが分からないので、是非よろしくお願いいたします。
しかし、この演劇は本当に良いものだと思いました。
・青酸カリでの「処置」
・日本軍の住民や患者への態度
・日本軍と現地召集兵の上下関係
・軍から民間人への武器の譲渡(自決問題で扱われた問題)
・壕内の状況
・皇民化教育の徹底
・非国民への対処
・泣く赤ちゃんを自分の手で殺す母親
・自決の強要
といった、現在でも沖縄戦研究で問題となっている部分を存分に取り入れた劇構成。
これは中学生だけでなく、大人にも、研究者にも、そして本土の人、とにかくたくさんの方々に観てもらいたいと思う内容でした。
そして、これを観た生徒たちがどう思ったかは直接聞いてみないと分かりませんが、この劇に携わった子供たちは、沖縄戦について大いに考えたことと思います。
台本を読み、劇の練習をする上で沖縄戦の知識を増やすでしょう。
そして、興味を持つのではないかと思います。
たくさんの子供たちが携わることにより、沖縄戦から世界平和への考えを深めてくれたらな。
そう思いました。
舞台に立つ生徒だけではなく、絵を描いた生徒、衣装を作った生徒など。
全校生徒が何かしらの形で携わることが大切だと思いました。
沖縄での平和学習の現場を見て、私の地元ではされていないような活動を目の当たりにし、衝撃を受けました。
後日、生徒たちのアンケートや感想文を見せていただけるようです。
この感想文を見て、また更に考える部分が出てくることでしょう。
この体験を通して、平和学習・平和教育というものに更に興味を持ちました。
これからの活動に、いいスパイスになりました!!
6月23日。
昨日は沖縄にとって、普通の土曜日ではなかった。
62年前の今日、第二次世界大戦・沖縄戦の組織的戦闘が終結した日とされている。
当時の司令官であった牛島満・長勇の二人が自決したとされる(22日説あり)事から、「組織的戦闘の終結」とされています。
そこで、琉球政府及び沖縄県は「慰霊の日」と定めました。
本島最南端の市・糸満市摩文仁の平和記念公園では、沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行われました。
朝8:45分、豊見城市から糸満市まで車を走られていました。
まだ、そんなに混み合う様子も無い感じでした。
糸満市に入ったあたりで、平和行進をする団体を見かけました。後々聞いたところによると、糸満市役所を出発した団体だったようです。
何かの記事では、このような平和行進に約800名の方が参加した、と書かれていました。
そして、糸満市の魂魄の塔に到着。
式典自体は平和記念公園で行われることは知っていましたが、日ごろお世話になっている先生のお手伝いもありましたし、「魂魄の塔」は私にとって特別な場所でもあったので、一日中、そこにいました。
魂魄の塔の様子。
正午前になると、たくさんの方がやってきました。
そして、平和行進の団体も到着し、人だらけ・・・。
正午になり、黙祷を捧げ、その後は平和集会的なことが行われていました。
魂魄の塔の南にある「広島の塔」の前では、阿倍総理来沖反対集会が行われていました。
22日にも大規模な反対集会が那覇市で行われていたとの事でした。
当日、来沖した阿倍総理の式典参加中、暴動が起きるのではないかとの懸念もありましたが、特に何もなく無事にオカエリニナラレタとの事でした。
正午に黙祷を捧げた後、遺族の方々は思い思いの場所へと移動されました。
亡くなった場所が分かっていればその場所へ。
学徒隊に入っていた方のご遺族は各々の塔へ。
2007年6月23日は、朝から晴天に恵まれました。
日中は何もしなくても止め処なく汗が流れ、照りつける太陽の下、見事な青空が広がっていました。
普段、暑ければクーラーをかけては冷たいお茶を飲んでいる生活。
当時はクーラーどころか、分厚く通気性も悪く、汚れて悪臭を放つ衣服を身に纏い、食料どころか水分さえも無い状況。
そして、この照りつける太陽。
そのお陰で、道端のたくさんの死体は・・・腐敗を進める・・・。
62年前、この辺りでは凄惨な歴史の1ページが刻まれていました。
沖縄は梅雨明けしてからの7月半ばまでが一番雨が降らない時期なんだよ、と教えてもらいました。
組織上の戦闘が終結した62年前の今日。
実際はここからが地獄だったとのお話も聞きました。
戦争が終わってからの住民たちの一番初めの仕事。
それは死体や遺骨の収集。
魂魄の塔のすぐ隣に、胸像があります。
金城和信先生。
終戦直後の真和志村(現・那覇市字真和志)村長です。
1946年1月23日、米軍により、旧真和志村村民は、全てここ、糸満市にある収容所に集められました。当時、その周辺は沢山の遺骨が散乱している状態で、それを嘆いた金城村長は、婦人と共に村民の協力を仰ぎ、遺骨収集に乗り出します。
1946年2月27日、納骨堂を作り、これを「魂魄」と名付け、沖縄初の慰霊碑、「魂魄の塔」が建立されます。
その後、村長夫婦は、戦時中に2人の愛娘を戦死させた事もあり、旧陸軍第3外科壕周辺の遺骨を収集し、1946年4月5日に「ひめゆりの塔」を、また、同年4月9日に男子学生を祀る、「健児の塔」を建立したそうです。
参考【http://page.freett.com/gpzagogo/index.html】
彼の行動を見ていた民衆は、米軍に見つかったら殺されるのではないか、戦犯になるのではないかと心配したそうです。
しかし、金城先生は「このたくさんの亡骸の中には米軍も居るだろう。しかし、それも差別無く集め、埋葬してあげたい」とそういって、遺骨集めを続けたそうです。
23日、偶然にも金城先生の教え子さんにお会いしてお話しする機会があり、そうお話してくださいました。
ひめゆり学徒の引率教師である仲宗根政善先生も、
「幾千の遺骨がぎっしりつまっていた。住民や日本兵ばかりでなく、米兵の遺骨もまじっているという。戦争がすんで、敵も味方もない、と金城さんは手を合わせるようにして言われた」
と、記していらっしゃいます。
そして、長田紀春先生(当時、軍医として従軍されていた)の極近しいご親戚の方ともお会いした。
先生の詳しいお話は聞けなかったけれど、戦時中の貴重な体験談をいくつか聞かせていただいた。
6月23日は、沖縄では貧しい食事をして一日を過ごすことが慣習なんだよ。
と、教えていただいた。
戦争で亡くなった方々のことを思いながらすごさないと・・・。
沖縄県民は、全員遺族なんだからね。
その話がとても重く心に響いた。
1000年も昔の伝説を聞いているわけではない。
実際に体験した人々が、まだ生きていらっしゃるのだ。
つい62年前に、今私が立っているこの場所で起きたことなのだ・・・。
知ってか知らずか・・・何の集会だろう???と言わんばかりにサーファー登場。
日本人では無かったが、周りの冷たい視線と気まずさだろうか・・・そそくさと離れていった。
日中、沖縄の知り合いから電話が来た。
「今何してるの~?忙しいの??? え、慰霊の日???あ~そうか、だから休みだし遊んでるんだね!!」
何考えてるんだか・・・。と、呆れたけれど、それが現実なのかな・・・と、諦めた・・・。
沖縄ですら、若い子からしたら「祝日」みたいな捉え方しかしてないのかなぁ~と、さびしい気持ちになった。
またまた考える材料が増えた・・・。
その後先生方と別れ、一人喜屋武岬へと足を伸ばした。
喜屋武岬は、良く行く場所。いつ行っても閑散としている。
しかし、平和の塔の前にはたくさんの花が手向けられていた。
人は居なかったが、日中、たくさんの人が居たのだろうな~と思った。
ベンチに座り、一日を振り返り、当時のことを色々と考えてみた。
沈み行く太陽を眺めながら、思いを馳せた。
岬に向かう道の両側は、ひまわりが見事に咲いていた。
ここのひまわりは、いつ見ても悲しそうな顔をしている。
これからも咲き続けてほしい。
生きたかった彼らを映すように。
昨日は沖縄にとって、普通の土曜日ではなかった。
62年前の今日、第二次世界大戦・沖縄戦の組織的戦闘が終結した日とされている。
当時の司令官であった牛島満・長勇の二人が自決したとされる(22日説あり)事から、「組織的戦闘の終結」とされています。
そこで、琉球政府及び沖縄県は「慰霊の日」と定めました。
本島最南端の市・糸満市摩文仁の平和記念公園では、沖縄県が主催する沖縄全戦没者慰霊祭が行われました。
朝8:45分、豊見城市から糸満市まで車を走られていました。
まだ、そんなに混み合う様子も無い感じでした。
糸満市に入ったあたりで、平和行進をする団体を見かけました。後々聞いたところによると、糸満市役所を出発した団体だったようです。
何かの記事では、このような平和行進に約800名の方が参加した、と書かれていました。
そして、糸満市の魂魄の塔に到着。
式典自体は平和記念公園で行われることは知っていましたが、日ごろお世話になっている先生のお手伝いもありましたし、「魂魄の塔」は私にとって特別な場所でもあったので、一日中、そこにいました。
魂魄の塔の様子。
正午前になると、たくさんの方がやってきました。
そして、平和行進の団体も到着し、人だらけ・・・。
正午になり、黙祷を捧げ、その後は平和集会的なことが行われていました。
魂魄の塔の南にある「広島の塔」の前では、阿倍総理来沖反対集会が行われていました。
22日にも大規模な反対集会が那覇市で行われていたとの事でした。
当日、来沖した阿倍総理の式典参加中、暴動が起きるのではないかとの懸念もありましたが、特に何もなく無事にオカエリニナラレタとの事でした。
正午に黙祷を捧げた後、遺族の方々は思い思いの場所へと移動されました。
亡くなった場所が分かっていればその場所へ。
学徒隊に入っていた方のご遺族は各々の塔へ。
2007年6月23日は、朝から晴天に恵まれました。
日中は何もしなくても止め処なく汗が流れ、照りつける太陽の下、見事な青空が広がっていました。
普段、暑ければクーラーをかけては冷たいお茶を飲んでいる生活。
当時はクーラーどころか、分厚く通気性も悪く、汚れて悪臭を放つ衣服を身に纏い、食料どころか水分さえも無い状況。
そして、この照りつける太陽。
そのお陰で、道端のたくさんの死体は・・・腐敗を進める・・・。
62年前、この辺りでは凄惨な歴史の1ページが刻まれていました。
沖縄は梅雨明けしてからの7月半ばまでが一番雨が降らない時期なんだよ、と教えてもらいました。
組織上の戦闘が終結した62年前の今日。
実際はここからが地獄だったとのお話も聞きました。
戦争が終わってからの住民たちの一番初めの仕事。
それは死体や遺骨の収集。
魂魄の塔のすぐ隣に、胸像があります。
金城和信先生。
終戦直後の真和志村(現・那覇市字真和志)村長です。
1946年1月23日、米軍により、旧真和志村村民は、全てここ、糸満市にある収容所に集められました。当時、その周辺は沢山の遺骨が散乱している状態で、それを嘆いた金城村長は、婦人と共に村民の協力を仰ぎ、遺骨収集に乗り出します。
1946年2月27日、納骨堂を作り、これを「魂魄」と名付け、沖縄初の慰霊碑、「魂魄の塔」が建立されます。
その後、村長夫婦は、戦時中に2人の愛娘を戦死させた事もあり、旧陸軍第3外科壕周辺の遺骨を収集し、1946年4月5日に「ひめゆりの塔」を、また、同年4月9日に男子学生を祀る、「健児の塔」を建立したそうです。
参考【http://page.freett.com/gpzagogo/index.html】
彼の行動を見ていた民衆は、米軍に見つかったら殺されるのではないか、戦犯になるのではないかと心配したそうです。
しかし、金城先生は「このたくさんの亡骸の中には米軍も居るだろう。しかし、それも差別無く集め、埋葬してあげたい」とそういって、遺骨集めを続けたそうです。
23日、偶然にも金城先生の教え子さんにお会いしてお話しする機会があり、そうお話してくださいました。
ひめゆり学徒の引率教師である仲宗根政善先生も、
「幾千の遺骨がぎっしりつまっていた。住民や日本兵ばかりでなく、米兵の遺骨もまじっているという。戦争がすんで、敵も味方もない、と金城さんは手を合わせるようにして言われた」
と、記していらっしゃいます。
そして、長田紀春先生(当時、軍医として従軍されていた)の極近しいご親戚の方ともお会いした。
先生の詳しいお話は聞けなかったけれど、戦時中の貴重な体験談をいくつか聞かせていただいた。
6月23日は、沖縄では貧しい食事をして一日を過ごすことが慣習なんだよ。
と、教えていただいた。
戦争で亡くなった方々のことを思いながらすごさないと・・・。
沖縄県民は、全員遺族なんだからね。
その話がとても重く心に響いた。
1000年も昔の伝説を聞いているわけではない。
実際に体験した人々が、まだ生きていらっしゃるのだ。
つい62年前に、今私が立っているこの場所で起きたことなのだ・・・。
知ってか知らずか・・・何の集会だろう???と言わんばかりにサーファー登場。
日本人では無かったが、周りの冷たい視線と気まずさだろうか・・・そそくさと離れていった。
日中、沖縄の知り合いから電話が来た。
「今何してるの~?忙しいの??? え、慰霊の日???あ~そうか、だから休みだし遊んでるんだね!!」
何考えてるんだか・・・。と、呆れたけれど、それが現実なのかな・・・と、諦めた・・・。
沖縄ですら、若い子からしたら「祝日」みたいな捉え方しかしてないのかなぁ~と、さびしい気持ちになった。
またまた考える材料が増えた・・・。
その後先生方と別れ、一人喜屋武岬へと足を伸ばした。
喜屋武岬は、良く行く場所。いつ行っても閑散としている。
しかし、平和の塔の前にはたくさんの花が手向けられていた。
人は居なかったが、日中、たくさんの人が居たのだろうな~と思った。
ベンチに座り、一日を振り返り、当時のことを色々と考えてみた。
沈み行く太陽を眺めながら、思いを馳せた。
岬に向かう道の両側は、ひまわりが見事に咲いていた。
ここのひまわりは、いつ見ても悲しそうな顔をしている。
これからも咲き続けてほしい。
生きたかった彼らを映すように。
今日、第一陣として行って来ました。
一般公開の第一陣ということで、たくさんのマスコミがいらっしゃっていました。
本日の沖縄は雨。見学時は小雨がぱらついていましたが、そこまで気温は高くありませんでした。
ガイドの安仁屋真孝さんから説明を受け、壕の中へ・・・。
壕の中は、危険の無いようにと、人工的に補強されている部分もありましたが、当時のツルハシの後などは見る事が出来ました。
杭の素材は松。松脂(まつやに)を豊富に含んだ松は、米軍の火炎放射を浴びた際に良く燃え、現在も黒く焦げた状態で残っています。
焦げた坑木。
そして、この壕にも鍾乳洞と同じツララが見て取れました。
63年前に掘られたこの壕。
あと何百年もしたら、鍾乳洞になるのでしょう。。。
分かるでしょうか???
私の身長は155センチ。
しかし、何度も天井に頭をぶつけました。
確かに後々になって補強して、天井が当時よりも低くなっているとはいえ・・・。
当時の日本軍の指令で掘られた壕は、基本的には幅180cm×高さ180cmで作られていたという事でした。
そして、右側には幅約90cmのベッドが設置されていました。
という事は、通路は90cm余り・・・。
そこに大量の患者や軍医、看護婦、学徒らがひしめいていたのです・・・。
当時、朝鮮人軍夫として韓国から連れて来られた、ベン上等兵が寝かされていたと思われる場所の天井には、「姜」という文字が刻まれていました。
これと同じ文字が、長野県・松代大本営にもあります。
まず、私の感想としては・・・。
一言で言えば、
マスコミが鬱陶しかった・・・。
フラッシュたきまくり、撮影に一番いい位置を陣取るなどなど・・・。
一般の見学者としては、余りに耐え難い仕打ちでした。
挙句、ガイドさんは「マスコミがたくさん居て、しどろもどろの説明になってしまいました~。」って・・・。
外で、文化センターの方が「ストロボはたかないようにしてくださいね!」って言ってたのに、完全無視・・・。
まぁ、マスコミへの愚痴は置いといて!
実際に入ってみて「当時は今以上の劣悪な環境だったのだろうな」と、想像を巡らせました。
人口密度、湿度・温度、臭気・・・。
あの広さの壕で、更にベッドと大量の患者さん。
その中での看護活動がどれだけのものだったのか。
想像してもしきれませんでした。
追体験において、「想像する」というのは、とても大きな意味を持ちます。
しかし、自分たちの想像なんて遥かに超越する劣悪な環境だったのだろうと思うと・・・。
言葉も見つかりません。
壕内には、当時の空き瓶なども残っていました。
恐らく管理されている方がソレっぽく置いたんじゃないかなぁ~・・・と思いますが・・・。
出口付近には、この壕から出てきた遺留品が展示されています。
壕内の遺留品。
出口付近。
展示されている遺留品。
ガイドさんについては、ひめゆり学徒隊の足跡なども話してくれました。
しかし、本などに載っていることを説明していたくらいなので、多少の知識があれば説明にはついていけます。
余り知識が無いという方でも分かると思いますし、少人数での見学なので、質問したら答えてくれると思います。
でも、それなりに知識があったり勉強している方には物足りないかもしれません・・・。
場所の説明(ここに何があった、とか)は、ガイドさんの説明で良く分かりました。
とにかく、行ってみてください。
恐らく、これからはマスコミも減るとは思いますので、落ち着いてゆっくりお話を聞きながら、追体験が出来る事と思います。
私も日を改めてもう一度行って来ようと思います。
拙い説明で申し訳ありませんが、百聞は一見に如かず。
県内の方、沖縄に来る予定のある方は、予約して行ってみてください。
一般公開の第一陣ということで、たくさんのマスコミがいらっしゃっていました。
本日の沖縄は雨。見学時は小雨がぱらついていましたが、そこまで気温は高くありませんでした。
ガイドの安仁屋真孝さんから説明を受け、壕の中へ・・・。
壕の中は、危険の無いようにと、人工的に補強されている部分もありましたが、当時のツルハシの後などは見る事が出来ました。
杭の素材は松。松脂(まつやに)を豊富に含んだ松は、米軍の火炎放射を浴びた際に良く燃え、現在も黒く焦げた状態で残っています。
焦げた坑木。
そして、この壕にも鍾乳洞と同じツララが見て取れました。
63年前に掘られたこの壕。
あと何百年もしたら、鍾乳洞になるのでしょう。。。
分かるでしょうか???
私の身長は155センチ。
しかし、何度も天井に頭をぶつけました。
確かに後々になって補強して、天井が当時よりも低くなっているとはいえ・・・。
当時の日本軍の指令で掘られた壕は、基本的には幅180cm×高さ180cmで作られていたという事でした。
そして、右側には幅約90cmのベッドが設置されていました。
という事は、通路は90cm余り・・・。
そこに大量の患者や軍医、看護婦、学徒らがひしめいていたのです・・・。
当時、朝鮮人軍夫として韓国から連れて来られた、ベン上等兵が寝かされていたと思われる場所の天井には、「姜」という文字が刻まれていました。
これと同じ文字が、長野県・松代大本営にもあります。
まず、私の感想としては・・・。
一言で言えば、
マスコミが鬱陶しかった・・・。
フラッシュたきまくり、撮影に一番いい位置を陣取るなどなど・・・。
一般の見学者としては、余りに耐え難い仕打ちでした。
挙句、ガイドさんは「マスコミがたくさん居て、しどろもどろの説明になってしまいました~。」って・・・。
外で、文化センターの方が「ストロボはたかないようにしてくださいね!」って言ってたのに、完全無視・・・。
まぁ、マスコミへの愚痴は置いといて!
実際に入ってみて「当時は今以上の劣悪な環境だったのだろうな」と、想像を巡らせました。
人口密度、湿度・温度、臭気・・・。
あの広さの壕で、更にベッドと大量の患者さん。
その中での看護活動がどれだけのものだったのか。
想像してもしきれませんでした。
追体験において、「想像する」というのは、とても大きな意味を持ちます。
しかし、自分たちの想像なんて遥かに超越する劣悪な環境だったのだろうと思うと・・・。
言葉も見つかりません。
壕内には、当時の空き瓶なども残っていました。
恐らく管理されている方がソレっぽく置いたんじゃないかなぁ~・・・と思いますが・・・。
出口付近には、この壕から出てきた遺留品が展示されています。
壕内の遺留品。
出口付近。
展示されている遺留品。
ガイドさんについては、ひめゆり学徒隊の足跡なども話してくれました。
しかし、本などに載っていることを説明していたくらいなので、多少の知識があれば説明にはついていけます。
余り知識が無いという方でも分かると思いますし、少人数での見学なので、質問したら答えてくれると思います。
でも、それなりに知識があったり勉強している方には物足りないかもしれません・・・。
場所の説明(ここに何があった、とか)は、ガイドさんの説明で良く分かりました。
とにかく、行ってみてください。
恐らく、これからはマスコミも減るとは思いますので、落ち着いてゆっくりお話を聞きながら、追体験が出来る事と思います。
私も日を改めてもう一度行って来ようと思います。
拙い説明で申し訳ありませんが、百聞は一見に如かず。
県内の方、沖縄に来る予定のある方は、予約して行ってみてください。
***17*「集団自決」検定を問う ~シンポジウムの内容~参照***
このシンポジウムに参加して、色々なことを学び、そして考えました。
まず、「教科書問題」がここまでクローズアップされている理由。
何故、その一文にここまで拘るのか。
まずは、「史実歪曲」の防止です。
前回の記事でも記したように、これからは【「体験者」が「非体験者」へ語る時代から「非体験者」が「非体験者」へ語る時代へ】と、変化して行きます。
この問題を放置した場合、教科書でしか沖縄戦を知らない子供が増えていき、戦争体験者がこの世から去った時に分かると思います。
教育の恐ろしさというのは、戦争中の皇民化教育をはじめ、とてつもない力を持っています。
それしか知らない子供にとって、学校で学んだ事が全てになってしまいます。
史実を歪曲したままにしたら、それが「史実」になってしまうことも有り得るのです。
恐らく、今までの長い歴史の中、歪曲された史実が「史実」として成り立っている事も少なくないと思います。
後になって、研究者が「真実の史実」を解明したとしても、それが世間一般に完全に浸透するとは思いません。
確かに「ウソを書いている」わけではないのですが、「真実の削除」には裏に理由があるから削除されるのです。
それが次に挙げる「政治の教育への介入」です。
政治の教育への介入。
今回の削除の理由は、間違いなく「安部内閣」が関係しています。
「愛国心」を掲げるこの内閣。それに関して、日本軍が住民を殺害したという事実は内閣の方針にそぐわない物です。
その為、今回の教科書検定で記述削除を指定したのです。
だから、削除の理由も曖昧にしたのです。
ハッキリと言えないですからね、「愛国心の方針に合わない」とは・・・。
ひめゆり学徒隊の宮良さん(現在はひめゆり資料館で語り部として活動されています)も、安部内閣と扶桑社との関係や、教科書問題の事を懸念していらっしゃいました。
そういう点で、今回の教科書検定問題が問題にもなっています。
ただ単に実際にあった問題を削除するのは間違っている、というだけでなく、政治が教育に介入し、方針によって史実が歪曲されることも関係しているのです。
このシンポジウムに参加して思ったこと。
それは、教育の力というものでした。
当時の貴重な体験談を聞き、そして先生方の研究に基づいたお話を聞き、改めて教育というものの力を思い知りました。
教育一つで、「お国のために死ぬ」ことが出来る。
そして、皇民化教育を受けず、そしてアメリカなどへ行っていた「移民帰り」と呼ばれる海外へ出稼ぎをしていた人のお陰で命を拾った民間の人も少なくなかったのです(読谷村、チビチリガマ・シムクガマの件など)。
現在の教育はどうでしょうか。
当時とは違うとはいえ、やはり同じ教育。力を加えれば違った方向へと国を誘う事も可能です。
内閣の方針によって、真実を歪曲することなど、言語道断です。
私の勝手なる考えですが、数学の基礎は+-×÷です。
それを歪曲することは出来ません。そして、数学の基礎として、必ず教えられるものです。
しかし、平和の基礎はどうでしょうか???
しっかりと教えられる事も無く、挙句は歪曲されているのです。
人類の求める「世界平和」なのに、何故この様な事が平気で行われるのでしょうか???
確かに、学校教育は「ゆとり学習」の影響、時間が経つにつれて歴史の授業は更に詰め込まれていくものとなるでしょう。
昭和30年代生まれの父や母の青春時代が、平成の現在では「歴史」として教科書に登場してくるのです。
そうやって時代が進むにつれて、更に細かな事象にまで触れることは出来なくなって行くでしょう。
しかし、だからといって事実の削除や歴史の歪曲が罷り通るわけではありません。
そして、最後に言いたい事。
これは、沖縄だけの問題ではありません。
沖縄戦で起きたことではありますが、教育は日本全国で行われるもの、そして、教科書は日本全国で同じものを使われる、そして、日本の歴史は、日本人全員が創ってきたものです。
沖縄県民だけが決起し、沖縄県民だけが抗議すればいいものではないのです。
日本全土の問題として、日本の国民全てが考えるべき問題ではないでしょうか???
そして、日本全国の人々が動く事によって、この問題が解決する事も夢ではありません。
どうか、考えてみてください。
そして、動いてください。
このシンポジウムに参加して、色々なことを学び、そして考えました。
まず、「教科書問題」がここまでクローズアップされている理由。
何故、その一文にここまで拘るのか。
まずは、「史実歪曲」の防止です。
前回の記事でも記したように、これからは【「体験者」が「非体験者」へ語る時代から「非体験者」が「非体験者」へ語る時代へ】と、変化して行きます。
この問題を放置した場合、教科書でしか沖縄戦を知らない子供が増えていき、戦争体験者がこの世から去った時に分かると思います。
教育の恐ろしさというのは、戦争中の皇民化教育をはじめ、とてつもない力を持っています。
それしか知らない子供にとって、学校で学んだ事が全てになってしまいます。
史実を歪曲したままにしたら、それが「史実」になってしまうことも有り得るのです。
恐らく、今までの長い歴史の中、歪曲された史実が「史実」として成り立っている事も少なくないと思います。
後になって、研究者が「真実の史実」を解明したとしても、それが世間一般に完全に浸透するとは思いません。
確かに「ウソを書いている」わけではないのですが、「真実の削除」には裏に理由があるから削除されるのです。
それが次に挙げる「政治の教育への介入」です。
政治の教育への介入。
今回の削除の理由は、間違いなく「安部内閣」が関係しています。
「愛国心」を掲げるこの内閣。それに関して、日本軍が住民を殺害したという事実は内閣の方針にそぐわない物です。
その為、今回の教科書検定で記述削除を指定したのです。
だから、削除の理由も曖昧にしたのです。
ハッキリと言えないですからね、「愛国心の方針に合わない」とは・・・。
ひめゆり学徒隊の宮良さん(現在はひめゆり資料館で語り部として活動されています)も、安部内閣と扶桑社との関係や、教科書問題の事を懸念していらっしゃいました。
そういう点で、今回の教科書検定問題が問題にもなっています。
ただ単に実際にあった問題を削除するのは間違っている、というだけでなく、政治が教育に介入し、方針によって史実が歪曲されることも関係しているのです。
このシンポジウムに参加して思ったこと。
それは、教育の力というものでした。
当時の貴重な体験談を聞き、そして先生方の研究に基づいたお話を聞き、改めて教育というものの力を思い知りました。
教育一つで、「お国のために死ぬ」ことが出来る。
そして、皇民化教育を受けず、そしてアメリカなどへ行っていた「移民帰り」と呼ばれる海外へ出稼ぎをしていた人のお陰で命を拾った民間の人も少なくなかったのです(読谷村、チビチリガマ・シムクガマの件など)。
現在の教育はどうでしょうか。
当時とは違うとはいえ、やはり同じ教育。力を加えれば違った方向へと国を誘う事も可能です。
内閣の方針によって、真実を歪曲することなど、言語道断です。
私の勝手なる考えですが、数学の基礎は+-×÷です。
それを歪曲することは出来ません。そして、数学の基礎として、必ず教えられるものです。
しかし、平和の基礎はどうでしょうか???
しっかりと教えられる事も無く、挙句は歪曲されているのです。
人類の求める「世界平和」なのに、何故この様な事が平気で行われるのでしょうか???
確かに、学校教育は「ゆとり学習」の影響、時間が経つにつれて歴史の授業は更に詰め込まれていくものとなるでしょう。
昭和30年代生まれの父や母の青春時代が、平成の現在では「歴史」として教科書に登場してくるのです。
そうやって時代が進むにつれて、更に細かな事象にまで触れることは出来なくなって行くでしょう。
しかし、だからといって事実の削除や歴史の歪曲が罷り通るわけではありません。
そして、最後に言いたい事。
これは、沖縄だけの問題ではありません。
沖縄戦で起きたことではありますが、教育は日本全国で行われるもの、そして、教科書は日本全国で同じものを使われる、そして、日本の歴史は、日本人全員が創ってきたものです。
沖縄県民だけが決起し、沖縄県民だけが抗議すればいいものではないのです。
日本全土の問題として、日本の国民全てが考えるべき問題ではないでしょうか???
そして、日本全国の人々が動く事によって、この問題が解決する事も夢ではありません。
どうか、考えてみてください。
そして、動いてください。
6月2日、那覇市の沖縄県青年会館で行われた「挑まれる沖縄戦―「集団自決」検定を問う―」というシンポジウムに行ってきました。
予想外に混雑していましたが、何とか良い席を確保する事が出来ました。
意外にも若い方も多く見受けられ、沖縄県民の皆さんがこの問題に多くの関心を示している事が強く感じられました。
※ATTENTION※
シンポジウムの内容を記した自筆メモ及び配布資料を元に書いています。
もし、間違いなどがありましたら、コメントにてご指摘願います。
ここでは、シンポジウムの内容のみの投降です。
私自身の考えは、次回の投降にて書かせていただきます。
シンポジウムは二部構成で行われ、第一部では、渡嘉敷島「集団自決」体験者の金城重明さん(キリスト教短期大学名誉教授)の講和を、第二部では、高島伸欣(琉球大学教授)・安仁屋政昭(沖縄国際大学名誉教授)・屋嘉比収(沖縄大学准教授)の三名の先生と、主催の沖縄タイムス社編集局長の諸見里道浩氏の四名によるパネルディスカッションが行われました。
――第一部――
金城氏は、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、当時16歳だった。自らの手で愛する者を殺し、自分の番を待っていたという。
金城氏は、自分の母と妹と弟を殺したという事であった。
「死が唯一の選択肢」であり、集団死の現場では自発的に死ぬという思いや願望のかけらすらなく、生き残って鬼畜米英に惨殺されるくらいならば、自らの手で肉親を殺し、自死する事が絶望の中の慰めであった。従って集団死の内実は、自発的な死では毛頭なく、追い詰められた悲劇的な死であったのだ。
一木一葉まで日本軍の指揮下だった。村長といえど、住民に死を強要することなどできなかった。
と語り、軍命による悲劇であることを強調した。
沖縄戦での「集団自決」が起きた場所には、ある共通点がある。それは、その島に海上挺身隊が配備されていたか否か、である。挺身隊が配備されていた島ではもれなく「集団自決」が起こっているのだ。
沖縄戦において、非戦闘員に対する軍隊の言行は、住民の生命と財産を無視するものであった。具体的な事例としては、非戦闘員に軍隊が武器に類するもの(手榴弾)を渡すなど、戦前・戦中に絶対に有り得ないことである。皇軍(天皇の軍隊)の武器は即ち「天皇の武器」である。それを非戦闘員に手渡すなど言語道断であった。
当時の下仕官は、村の男性たちに2発の手榴弾を手渡し、「敵に遭遇したら1発は敵軍に投げ込み、残る1発で自決しろ」と命じたという事だ。これが、集団死の最大要因であったのだ。
――第二部――
第二部では、パネルディスカッションが行われました。
内容を全て書くと膨大な量になるので、ここでは要点のみを書いていこうと思います。
左:安仁屋 政昭先生 右:屋嘉比 収先生
左:諸見里 道浩氏 右:高嶋 伸欣先生
まず、3名の先生が各個人の主張を行いました。
【琉球大学・高嶋先生】
一昨年までの検定では、特に問題もなく通過していた「集団自決」記述。
しかし、突然の添削指示がでた。その指示は「集団自決の友軍の関与を全て削除の上、主語を曖昧にしての記述」であった。
それまでの文科省の改定指示は、とても具体的なものだった(数字や地名、感じの間違い等)のに、今回はぼかした指示しかしてこなかった。
2005年と2006年の教科書検定の社会的相違点は、安倍内閣発足である。
「愛国心」を強調した安部内閣、政治を教育に取り入れることを大々的に公言できないため、裁判を理由に史実歪曲をした。
政治を教育に取り入れるなど、許させる事ではない。
「集団自決」記述の問題は、今からでもまだ間に合う。現在はまだ見本の教科書しか出来ていない。本格的に印刷が始まるのは年末だから、まだまだ改定の余地はある。
そして、1981年の「公害問題の固有名詞記載問題」では、教科書展示会も終わり、採択も修了した後の検定意見撤回、という前例があるので、全国的に活動したら今回の問題もまだ間に合う。
・ニューヨークタイムスが今年の4月1日に教科書問題を取り上げていた。
・アジア各国、そしてアメリカが日本の戦後処理はおかしいとしてみている。
・今は『日本の自助力』が試されている。
・そして、沖縄戦の空洞化の見直しが大切である。完璧な対応は無理だとしても、相互批判はとても大切である。
・アジア、沖縄、北海道への差別意識も問題である。
・沖縄はオーラルヒストリーの市民権獲得の魁でもある。
・前と同じことを繰り返さない、回避するための力を持つ事が必要だ。
・主権在民社会の雰囲気を強く意識して欲しい。
との事でした。
【沖縄国際大学・安仁屋先生】
「合囲地境」の状況にあったことを忘れてはならない。当時、民政は布かれない。軍命のみで全てが回っていた。
合囲地境とは、戒厳令の一つで、もう一つは「臨戦地境」という。「合囲地境」のほうは、より切迫した地域に発せられます(戒厳は大日本帝国憲法の第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」に基づいていて、詳細は明治15年(1882)に布告された法律「戒厳令」によって決定)。
「合囲地境」戒厳下では、すべての地方行政・司法事務が軍の管理下になり、各種裁判も軍によって裁かれることになる。
さらに、
・昼夜の別なく、家屋建造物に立ち入り検査
・強制退去
などが可能となる。
この「合囲地境」は、陸軍士官学校の教科書『軍制学教程』にも
合囲地境ニ於テハ地方行政事務及司法事務ノ全部管掌ノ権ヲ其ノ地ノ司令官ニ委スモノトス
と、記されています。この記述から、陸軍士官学校に通っていたものならば知っていることである。因みに、1942年の陸軍士官学校校長は、牛島満であった。
長勇や、渡嘉敷島で指揮を執っていた赤松も同学校の卒業である。
因みに・・・。渡嘉敷島や座間味島などに駐留していた挺身隊は正式名称を「陸軍海上挺身隊」といい、海軍ではなく、陸軍の管轄である。
そのため、ボートの操縦も知らない隊員も沢山居た、ということです。
そのため、「合囲地境」下にあり、更に「軍民共生共死の一体化」という皇民化教育の徹底されたこの島での「集団自決」は「任意性・自発性」があったとは考えられない。
そういった状況であったし、移民帰りのが積極的な発言をすれば「スパイ」としてたちまち殺される。
「鬼畜米英」に殺されるくらいならば・・・と、「愛情の深さ」が「殺しの徹底」となって表れたのだ。
そして、「天皇の武器」である「軍の武器」を住民に渡す事も有り得ないことだった。
手榴弾を2つずつ手渡し、一つは敵に遭遇した際に敵に投げろ、もう一つは捕虜になったらそれで自決しろ、という指令を受けて渡されたそうだ。
そして、前述のスパイ嫌疑。特にそのターゲットとなったのが、
・移民帰り
・キリスト教信者(アメリカの思想に繋がっている)
・韓国人軍夫、婦人(一度アメリカの捕虜になった人)
・聴覚障害者(近くに爆弾が落ちても動じない=落ちる場所が分かっている、拷問するとボディランゲージ=聞こえないふりをしている)
・最近の若者はとても頼もしいと思っている。
・市町村史の編集中、戦争体験の聞き取りが重要視され、ジャーナリストや先生、大学生も活躍していた。
・現在の平和ガイドも非戦争体験者の若者が多い。
・今までは男性が多かったが、最近は女性も増えてきている。
との事でした。
【沖縄大学・屋嘉比先生】
戦後世代が、この問題をどのように考えたら良いのか?
・今回の教科書検定の意図や背景
①軍隊は住民を守らないという沖縄戦の認識の修正転換
②今回の教科書検定は歴史修正主義の政治的キャンペーンと岩波・大江訴訟との連動
③政府認識と一致
・日本軍の復権⇒日米同盟、日米両軍の一体化、防衛庁の昇格
・そのような沖縄戦の実相を歪曲する教科書検定に対し⇒県民世論、市町村議会、教育平和団体などの反対決議、撤回の意見書、声明書の提起⇒反対の組織化と大成の構築
・今回の検定と1982年の教科書検定における沖縄側の異同 〈1982年〉「日本軍による住民虐殺」の削除⇒〈今回〉「集団自決」における《日本軍の強制》の修正
①政府による沖縄戦記述修正の一貫性、住民意識の変更から日本軍の強制の修正へ
②1982年と現在の新聞紙面に見られる異同
同⇒教育民主団体による抗議、反対声明、市町村議会の撤回決議、新聞社の連載
異⇒体験者の告発証言の提起、一般投稿数の減少
・沖縄社会の構造的変化⇒体験者の減少
1982年当時は県民の4割が体験者、現在は1割強。
2018年には体験者がゼロになるとの推計も出ている(生きていても語れる状況ではない)
⇒沖縄戦継承の空洞化
沖縄戦継承の現状⇒慰霊の日に見られる三世代の風景
⇒礎の名前をなぞり涙する、戦争体験者の老婆
それを後ろから支える息子
礎の回りを走り回る孫
*「体験者」が「非体験者」へ語る時代から「非体験者」が「非体験者」へ語る時代へ*
・非体験者である私たちは「集団自決」(沖縄戦)にどのように向き合うか?
①沖縄戦の歴史的事実を学びなおす
⇒更新される沖縄戦、「知らない」との事実を基点に
②沖縄戦の歴史事実を踏まえ、自分がその場所にいたらどうするかと考える事が重要
⇒客観的な想像力を加味・・・「客観性」から「主体性」へ
⇒私自身が犯すかも知れぬ→愛するがために肉親に手をかける
⇒非体験者が「集団自決」に向き合うための歴史的想像力の涵養、当時者性の獲得
③沖縄戦を過去の問題としてではなく、現実の問題につなげて沖縄戦を学びなおす事
④今回の教科書問題を、沖縄戦に向かい合い繰り返し学びなおす契機とすることが重要
※配布資料レジュメ引用※
・安部内閣の登場は大きなもの。
・どの内閣だとしても、自国軍が自国民を殺害していたとの認識は都合が悪い。
・今回の問題は、研究者と体験者が声を上げた。
・今後は非体験者が、体験者の持っていたリアリティを持つ事が大切。
・体験者と非体験者が協力していくことが重要。
・今回の問題により、新たに考える若者が増えなければならない。
・問題を契機として「命どぅ宝」の再発見をしなければならない。
・沖縄戦研究の空洞化はないのか?ということを追求しなくてはならない。
とのことでした。
予想外に混雑していましたが、何とか良い席を確保する事が出来ました。
意外にも若い方も多く見受けられ、沖縄県民の皆さんがこの問題に多くの関心を示している事が強く感じられました。
※ATTENTION※
シンポジウムの内容を記した自筆メモ及び配布資料を元に書いています。
もし、間違いなどがありましたら、コメントにてご指摘願います。
ここでは、シンポジウムの内容のみの投降です。
私自身の考えは、次回の投降にて書かせていただきます。
シンポジウムは二部構成で行われ、第一部では、渡嘉敷島「集団自決」体験者の金城重明さん(キリスト教短期大学名誉教授)の講和を、第二部では、高島伸欣(琉球大学教授)・安仁屋政昭(沖縄国際大学名誉教授)・屋嘉比収(沖縄大学准教授)の三名の先生と、主催の沖縄タイムス社編集局長の諸見里道浩氏の四名によるパネルディスカッションが行われました。
――第一部――
金城氏は、渡嘉敷島での集団自決の体験者で、当時16歳だった。自らの手で愛する者を殺し、自分の番を待っていたという。
金城氏は、自分の母と妹と弟を殺したという事であった。
「死が唯一の選択肢」であり、集団死の現場では自発的に死ぬという思いや願望のかけらすらなく、生き残って鬼畜米英に惨殺されるくらいならば、自らの手で肉親を殺し、自死する事が絶望の中の慰めであった。従って集団死の内実は、自発的な死では毛頭なく、追い詰められた悲劇的な死であったのだ。
一木一葉まで日本軍の指揮下だった。村長といえど、住民に死を強要することなどできなかった。
と語り、軍命による悲劇であることを強調した。
沖縄戦での「集団自決」が起きた場所には、ある共通点がある。それは、その島に海上挺身隊が配備されていたか否か、である。挺身隊が配備されていた島ではもれなく「集団自決」が起こっているのだ。
沖縄戦において、非戦闘員に対する軍隊の言行は、住民の生命と財産を無視するものであった。具体的な事例としては、非戦闘員に軍隊が武器に類するもの(手榴弾)を渡すなど、戦前・戦中に絶対に有り得ないことである。皇軍(天皇の軍隊)の武器は即ち「天皇の武器」である。それを非戦闘員に手渡すなど言語道断であった。
当時の下仕官は、村の男性たちに2発の手榴弾を手渡し、「敵に遭遇したら1発は敵軍に投げ込み、残る1発で自決しろ」と命じたという事だ。これが、集団死の最大要因であったのだ。
――第二部――
第二部では、パネルディスカッションが行われました。
内容を全て書くと膨大な量になるので、ここでは要点のみを書いていこうと思います。
左:安仁屋 政昭先生 右:屋嘉比 収先生
左:諸見里 道浩氏 右:高嶋 伸欣先生
まず、3名の先生が各個人の主張を行いました。
【琉球大学・高嶋先生】
一昨年までの検定では、特に問題もなく通過していた「集団自決」記述。
しかし、突然の添削指示がでた。その指示は「集団自決の友軍の関与を全て削除の上、主語を曖昧にしての記述」であった。
それまでの文科省の改定指示は、とても具体的なものだった(数字や地名、感じの間違い等)のに、今回はぼかした指示しかしてこなかった。
2005年と2006年の教科書検定の社会的相違点は、安倍内閣発足である。
「愛国心」を強調した安部内閣、政治を教育に取り入れることを大々的に公言できないため、裁判を理由に史実歪曲をした。
政治を教育に取り入れるなど、許させる事ではない。
「集団自決」記述の問題は、今からでもまだ間に合う。現在はまだ見本の教科書しか出来ていない。本格的に印刷が始まるのは年末だから、まだまだ改定の余地はある。
そして、1981年の「公害問題の固有名詞記載問題」では、教科書展示会も終わり、採択も修了した後の検定意見撤回、という前例があるので、全国的に活動したら今回の問題もまだ間に合う。
・ニューヨークタイムスが今年の4月1日に教科書問題を取り上げていた。
・アジア各国、そしてアメリカが日本の戦後処理はおかしいとしてみている。
・今は『日本の自助力』が試されている。
・そして、沖縄戦の空洞化の見直しが大切である。完璧な対応は無理だとしても、相互批判はとても大切である。
・アジア、沖縄、北海道への差別意識も問題である。
・沖縄はオーラルヒストリーの市民権獲得の魁でもある。
・前と同じことを繰り返さない、回避するための力を持つ事が必要だ。
・主権在民社会の雰囲気を強く意識して欲しい。
との事でした。
【沖縄国際大学・安仁屋先生】
「合囲地境」の状況にあったことを忘れてはならない。当時、民政は布かれない。軍命のみで全てが回っていた。
合囲地境とは、戒厳令の一つで、もう一つは「臨戦地境」という。「合囲地境」のほうは、より切迫した地域に発せられます(戒厳は大日本帝国憲法の第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」に基づいていて、詳細は明治15年(1882)に布告された法律「戒厳令」によって決定)。
「合囲地境」戒厳下では、すべての地方行政・司法事務が軍の管理下になり、各種裁判も軍によって裁かれることになる。
さらに、
・昼夜の別なく、家屋建造物に立ち入り検査
・強制退去
などが可能となる。
この「合囲地境」は、陸軍士官学校の教科書『軍制学教程』にも
合囲地境ニ於テハ地方行政事務及司法事務ノ全部管掌ノ権ヲ其ノ地ノ司令官ニ委スモノトス
と、記されています。この記述から、陸軍士官学校に通っていたものならば知っていることである。因みに、1942年の陸軍士官学校校長は、牛島満であった。
長勇や、渡嘉敷島で指揮を執っていた赤松も同学校の卒業である。
因みに・・・。渡嘉敷島や座間味島などに駐留していた挺身隊は正式名称を「陸軍海上挺身隊」といい、海軍ではなく、陸軍の管轄である。
そのため、ボートの操縦も知らない隊員も沢山居た、ということです。
そのため、「合囲地境」下にあり、更に「軍民共生共死の一体化」という皇民化教育の徹底されたこの島での「集団自決」は「任意性・自発性」があったとは考えられない。
そういった状況であったし、移民帰りのが積極的な発言をすれば「スパイ」としてたちまち殺される。
「鬼畜米英」に殺されるくらいならば・・・と、「愛情の深さ」が「殺しの徹底」となって表れたのだ。
そして、「天皇の武器」である「軍の武器」を住民に渡す事も有り得ないことだった。
手榴弾を2つずつ手渡し、一つは敵に遭遇した際に敵に投げろ、もう一つは捕虜になったらそれで自決しろ、という指令を受けて渡されたそうだ。
そして、前述のスパイ嫌疑。特にそのターゲットとなったのが、
・移民帰り
・キリスト教信者(アメリカの思想に繋がっている)
・韓国人軍夫、婦人(一度アメリカの捕虜になった人)
・聴覚障害者(近くに爆弾が落ちても動じない=落ちる場所が分かっている、拷問するとボディランゲージ=聞こえないふりをしている)
・最近の若者はとても頼もしいと思っている。
・市町村史の編集中、戦争体験の聞き取りが重要視され、ジャーナリストや先生、大学生も活躍していた。
・現在の平和ガイドも非戦争体験者の若者が多い。
・今までは男性が多かったが、最近は女性も増えてきている。
との事でした。
【沖縄大学・屋嘉比先生】
戦後世代が、この問題をどのように考えたら良いのか?
・今回の教科書検定の意図や背景
①軍隊は住民を守らないという沖縄戦の認識の修正転換
②今回の教科書検定は歴史修正主義の政治的キャンペーンと岩波・大江訴訟との連動
③政府認識と一致
・日本軍の復権⇒日米同盟、日米両軍の一体化、防衛庁の昇格
・そのような沖縄戦の実相を歪曲する教科書検定に対し⇒県民世論、市町村議会、教育平和団体などの反対決議、撤回の意見書、声明書の提起⇒反対の組織化と大成の構築
・今回の検定と1982年の教科書検定における沖縄側の異同 〈1982年〉「日本軍による住民虐殺」の削除⇒〈今回〉「集団自決」における《日本軍の強制》の修正
①政府による沖縄戦記述修正の一貫性、住民意識の変更から日本軍の強制の修正へ
②1982年と現在の新聞紙面に見られる異同
同⇒教育民主団体による抗議、反対声明、市町村議会の撤回決議、新聞社の連載
異⇒体験者の告発証言の提起、一般投稿数の減少
・沖縄社会の構造的変化⇒体験者の減少
1982年当時は県民の4割が体験者、現在は1割強。
2018年には体験者がゼロになるとの推計も出ている(生きていても語れる状況ではない)
⇒沖縄戦継承の空洞化
沖縄戦継承の現状⇒慰霊の日に見られる三世代の風景
⇒礎の名前をなぞり涙する、戦争体験者の老婆
それを後ろから支える息子
礎の回りを走り回る孫
*「体験者」が「非体験者」へ語る時代から「非体験者」が「非体験者」へ語る時代へ*
・非体験者である私たちは「集団自決」(沖縄戦)にどのように向き合うか?
①沖縄戦の歴史的事実を学びなおす
⇒更新される沖縄戦、「知らない」との事実を基点に
②沖縄戦の歴史事実を踏まえ、自分がその場所にいたらどうするかと考える事が重要
⇒客観的な想像力を加味・・・「客観性」から「主体性」へ
⇒私自身が犯すかも知れぬ→愛するがために肉親に手をかける
⇒非体験者が「集団自決」に向き合うための歴史的想像力の涵養、当時者性の獲得
③沖縄戦を過去の問題としてではなく、現実の問題につなげて沖縄戦を学びなおす事
④今回の教科書問題を、沖縄戦に向かい合い繰り返し学びなおす契機とすることが重要
※配布資料レジュメ引用※
・安部内閣の登場は大きなもの。
・どの内閣だとしても、自国軍が自国民を殺害していたとの認識は都合が悪い。
・今回の問題は、研究者と体験者が声を上げた。
・今後は非体験者が、体験者の持っていたリアリティを持つ事が大切。
・体験者と非体験者が協力していくことが重要。
・今回の問題により、新たに考える若者が増えなければならない。
・問題を契機として「命どぅ宝」の再発見をしなければならない。
・沖縄戦研究の空洞化はないのか?ということを追求しなくてはならない。
とのことでした。
一つ、興味深いシンポジウムがあるので、ここで紹介します。
今ごろ遅いよ!!!と言われたらそこまでですが・・・。
高校歴史教科書で、「集団自決」の日本軍関与の記述が検定で削除されたことについて、シンポジウム「挑まれる沖縄戦―『集団自決』検定を問う」を開催します。沖縄戦体験者や研究者が一堂に会し、多角的な視点から、県民とともにこの問題の背景を考える場として位置付けます。
◆期 日 6月2日(土)午後2時―5時
◆会 場 沖縄県青年会館(那覇市久米)
◆内 容 (1)講話 金城重明(渡嘉敷島「集団自決」体験者)
(2)パネルディスカッション「『集団自決』検定を問う」
パネリスト 安仁屋政昭(沖縄国際大学名誉教授)、高嶋伸欣(琉球大学教授)、屋嘉比収(沖縄大学准教授)
諸見里道浩(沖縄タイムス編集局長)
◆入場料 無料
◆主 催 沖縄タイムス社
◆問い合わせ 沖縄タイムス読者センター、電話098(860)3663
「集団自決」についてのシンポジウムがあります。
今回、ちょっとした知り合いの方に誘われたので行ってきます。
もし、沖縄在住の方で興味がある方がいらっしゃったら、是非参加してください。
私も行ってきますので、また、ブログで報告します!
そしてもう一つ。
企画展 沖縄戦―那覇での戦闘―
◆期 間 平成19年6月1日(金)~6月27日(水)
◆会 場 那覇市歴史博物館(パレットくもじ4F)
◆内 容 那覇市域での戦闘の様子を写真パネルで紹介し、併せて当時の資料を展示
◆入場料 一般300円
◆休館日 毎週木曜日
こちらも明日、併せて行って参ります。
シンポジウムと一緒に報告します。
こちらはまだ始まったばかりなので、是非。
現在、知り合いの教育関係者の方にお願いして、沖縄県内の平和学習の実態調査、そして、都合があえば、実際の現場にお邪魔させて頂けるかも知れない感じです。
6月23日の慰霊の日に向けて、これからの時期は平和学習が盛んになるとのことでした。
その方のお話によると、実際に壕などに行って追体験をするのは、南部の学校と内地の学校が多いそうです。
その方は元々は那覇市内の中学校の校長先生をしていらっしゃった方ですが、那覇市内では壕などに行って追体験をするのではなく、パネルなどを使用した室内での平和学習が主だったそうです。
そのため、高学年になると毎年同じような内容になってしまうので、生徒は飽きてしまうといった状態で、教師側の平和学習の工夫が問われたという事でした。
先日、読谷役場に行ったときは、那覇市の「小禄高校」の生徒さんが平和学習でいらっしゃっていました。
資料片手に真剣な眼差しで聞いている子、眠そうな子、フラフラしてる子と、色々でしたが、それも先生の努力で何とかなるのかな?とも思ったりしました。
また、色々と報告します☆
今ごろ遅いよ!!!と言われたらそこまでですが・・・。
高校歴史教科書で、「集団自決」の日本軍関与の記述が検定で削除されたことについて、シンポジウム「挑まれる沖縄戦―『集団自決』検定を問う」を開催します。沖縄戦体験者や研究者が一堂に会し、多角的な視点から、県民とともにこの問題の背景を考える場として位置付けます。
◆期 日 6月2日(土)午後2時―5時
◆会 場 沖縄県青年会館(那覇市久米)
◆内 容 (1)講話 金城重明(渡嘉敷島「集団自決」体験者)
(2)パネルディスカッション「『集団自決』検定を問う」
パネリスト 安仁屋政昭(沖縄国際大学名誉教授)、高嶋伸欣(琉球大学教授)、屋嘉比収(沖縄大学准教授)
諸見里道浩(沖縄タイムス編集局長)
◆入場料 無料
◆主 催 沖縄タイムス社
◆問い合わせ 沖縄タイムス読者センター、電話098(860)3663
「集団自決」についてのシンポジウムがあります。
今回、ちょっとした知り合いの方に誘われたので行ってきます。
もし、沖縄在住の方で興味がある方がいらっしゃったら、是非参加してください。
私も行ってきますので、また、ブログで報告します!
そしてもう一つ。
企画展 沖縄戦―那覇での戦闘―
◆期 間 平成19年6月1日(金)~6月27日(水)
◆会 場 那覇市歴史博物館(パレットくもじ4F)
◆内 容 那覇市域での戦闘の様子を写真パネルで紹介し、併せて当時の資料を展示
◆入場料 一般300円
◆休館日 毎週木曜日
こちらも明日、併せて行って参ります。
シンポジウムと一緒に報告します。
こちらはまだ始まったばかりなので、是非。
現在、知り合いの教育関係者の方にお願いして、沖縄県内の平和学習の実態調査、そして、都合があえば、実際の現場にお邪魔させて頂けるかも知れない感じです。
6月23日の慰霊の日に向けて、これからの時期は平和学習が盛んになるとのことでした。
その方のお話によると、実際に壕などに行って追体験をするのは、南部の学校と内地の学校が多いそうです。
その方は元々は那覇市内の中学校の校長先生をしていらっしゃった方ですが、那覇市内では壕などに行って追体験をするのではなく、パネルなどを使用した室内での平和学習が主だったそうです。
そのため、高学年になると毎年同じような内容になってしまうので、生徒は飽きてしまうといった状態で、教師側の平和学習の工夫が問われたという事でした。
先日、読谷役場に行ったときは、那覇市の「小禄高校」の生徒さんが平和学習でいらっしゃっていました。
資料片手に真剣な眼差しで聞いている子、眠そうな子、フラフラしてる子と、色々でしたが、それも先生の努力で何とかなるのかな?とも思ったりしました。
また、色々と報告します☆
肩書きが欲しくてたまりません・・・。
そんなスッゴイモノじゃなくていいんですよ。。。
○○大学学部生、△△大学院生、□□研究所研究員・・・。
本当に欲しいけど、大学とかに入学しなおす資金なんてないんだよ!!!
大学8年なんて無理なんだよ!!(今年3月、4大卒。)
大学院なんて、授業料いくらだよ!!
センター試験対策してる時間なんてないんだよ!!
何でまた、今頃こんな叫び?と思いましたか???
読谷村役場での一コマ。
私:「こんにちは。読谷村の戦跡について詳しい方いらっしゃいますか?もしお時間があったらお話を伺いたいんですが。」
役場職員:「そうですか。どういった内容でしょうか?」
私:「戦跡の場所とか、そこでの関係資料とか、地域の学校教育の中での平和学習のあり方などを伺いたいです。お忙しいようでしたら、また日を改めて伺います!!」
役:「はぁ、そうですか。え~・・・どういった目的でしょうか?」
私:「はい、おきなわの戦跡を調べております。あと、平和学習についても調べております。」
役:「え~・・・でも、内地の方・・・ですよね?(見下した感じ)」
私:「え、はい、ないちゃーですが、今は豊見城に住んでおります。」
役:「あぁ!どこかの学生さんですか???」
私:「いえ、違います、個人的に行っております。」
役:「は?あ~・・・そうなんですか・・・。」
その後、かる~~~~~くサラっと「下で売ってる本読んで廻ってください。」
終わり。
あ・・・そうでうか・・・。
一般人には、教えてもらえないのですか・・・。
どこかの学生だったら、専門の職員呼んでくださるんですか。
そうじゃなかったら、大して話も聴かずに一般職員が対応するんですか・・・。
受け付けのお姉さん、「専門の先生、時間あるみたいなので、別の部屋でお話聴けると思いますよ!!」って言ってたぞ?
私の態度、悪かったか?
意味分からん・・・。
ていうか、凹むわ。
知り合いの先生の名刺出せば良かった・・・。
熱意で何とかできる問題だけど、完全に門前払いの空気を発してたあの職員・・・。
あの見下した目。
もういいよ!役場には頼らねぇ!!
とか思いつつ、別の職員さんに聞きたいこと聞いて、帰りましたwww
くそぅ!!!
肩書き!!!
そんなスッゴイモノじゃなくていいんですよ。。。
○○大学学部生、△△大学院生、□□研究所研究員・・・。
本当に欲しいけど、大学とかに入学しなおす資金なんてないんだよ!!!
大学8年なんて無理なんだよ!!(今年3月、4大卒。)
大学院なんて、授業料いくらだよ!!
センター試験対策してる時間なんてないんだよ!!
何でまた、今頃こんな叫び?と思いましたか???
読谷村役場での一コマ。
私:「こんにちは。読谷村の戦跡について詳しい方いらっしゃいますか?もしお時間があったらお話を伺いたいんですが。」
役場職員:「そうですか。どういった内容でしょうか?」
私:「戦跡の場所とか、そこでの関係資料とか、地域の学校教育の中での平和学習のあり方などを伺いたいです。お忙しいようでしたら、また日を改めて伺います!!」
役:「はぁ、そうですか。え~・・・どういった目的でしょうか?」
私:「はい、おきなわの戦跡を調べております。あと、平和学習についても調べております。」
役:「え~・・・でも、内地の方・・・ですよね?(見下した感じ)」
私:「え、はい、ないちゃーですが、今は豊見城に住んでおります。」
役:「あぁ!どこかの学生さんですか???」
私:「いえ、違います、個人的に行っております。」
役:「は?あ~・・・そうなんですか・・・。」
その後、かる~~~~~くサラっと「下で売ってる本読んで廻ってください。」
終わり。
あ・・・そうでうか・・・。
一般人には、教えてもらえないのですか・・・。
どこかの学生だったら、専門の職員呼んでくださるんですか。
そうじゃなかったら、大して話も聴かずに一般職員が対応するんですか・・・。
受け付けのお姉さん、「専門の先生、時間あるみたいなので、別の部屋でお話聴けると思いますよ!!」って言ってたぞ?
私の態度、悪かったか?
意味分からん・・・。
ていうか、凹むわ。
知り合いの先生の名刺出せば良かった・・・。
熱意で何とかできる問題だけど、完全に門前払いの空気を発してたあの職員・・・。
あの見下した目。
もういいよ!役場には頼らねぇ!!
とか思いつつ、別の職員さんに聞きたいこと聞いて、帰りましたwww
くそぅ!!!
肩書き!!!
現在公開されている
『俺は、きみのためにこそ死にに行く』
ですが、どうやら「やっちゃった感満載」なようです。知り合いの方々からはそんな意見しか聞かないんです。
戦争映画についての話は――どの映画でも言える事ですが――戦争の知識が豊富な人や関係者の皆様と、一般の映画を楽しむ人との間で評価が全くといっていいほど違うんですよね。
前者の方々は、知識が豊富な分、設定や内容に違和感を覚えたり、実際の戦争を体験した方からしたら、実際はあんな風じゃない、との意見が出たり。
後者の方々は、「泣けた」とか「感動した」とかが主な意見。中には「戦争について、もっと知りたいと思った」っていう感想を持つ人も居ますが、大抵は「感動映画」として終わるんですよね。
どうなんでしょうか。。。
私は、映画という媒体を通して戦争に興味・関心を持ってくれる人が増えるのはとてもいいことだと思う。
でも、映画だから描ききれない部分や、史実を少し変えて「ストーリー」を作ったりすることによって、史実の認識が変わり、世間一般に流通してしまう怖さもあります。
坂本龍馬の例がそれを物語っています。(話がずれるのでここでは書きませんが・・・。)
戦争映画が「感動の名作」「涙なしでは終われない」で終わっていいのか。
史実を曲げていいのか。
メディアの力というのは強大。
その使い方によって、事実誤認が起こる事や、フィクションが「世間の真実」になることが怖い・・・。
『俺は、きみのためにこそ死にに行く』
ですが、どうやら「やっちゃった感満載」なようです。知り合いの方々からはそんな意見しか聞かないんです。
戦争映画についての話は――どの映画でも言える事ですが――戦争の知識が豊富な人や関係者の皆様と、一般の映画を楽しむ人との間で評価が全くといっていいほど違うんですよね。
前者の方々は、知識が豊富な分、設定や内容に違和感を覚えたり、実際の戦争を体験した方からしたら、実際はあんな風じゃない、との意見が出たり。
後者の方々は、「泣けた」とか「感動した」とかが主な意見。中には「戦争について、もっと知りたいと思った」っていう感想を持つ人も居ますが、大抵は「感動映画」として終わるんですよね。
どうなんでしょうか。。。
私は、映画という媒体を通して戦争に興味・関心を持ってくれる人が増えるのはとてもいいことだと思う。
でも、映画だから描ききれない部分や、史実を少し変えて「ストーリー」を作ったりすることによって、史実の認識が変わり、世間一般に流通してしまう怖さもあります。
坂本龍馬の例がそれを物語っています。(話がずれるのでここでは書きませんが・・・。)
戦争映画が「感動の名作」「涙なしでは終われない」で終わっていいのか。
史実を曲げていいのか。
メディアの力というのは強大。
その使い方によって、事実誤認が起こる事や、フィクションが「世間の真実」になることが怖い・・・。
地域によって違う平和学習。
これについて実感したのは、各地の友達に、義務教育時代の平和学習で何をしたかを聞いたときに改めて痛感した。
私の通っていた学校では、平和学習っていうものは殆どといっていいほど行われていなかった。
「おじいちゃん、おばあちゃんに、戦争の話を聴いてきましょう」
というくらい。
しかし、広島や長崎、沖縄の友達に聞くと、全然違う。
毎年毎年、みっちりと平和学習の時間が設けられている。
そして、戦跡があるという理由からか、現地での活動も行われている。
地域によっての平和学習の格差。
これを痛感している。
沖縄に折角いるのだから、小学校や中学校にお願いして、平和学習の指導について先生方にお話を聴いたりしたいな、とおもった。
幸い、沖縄の知り合いの中には、中学校校長を務めた方や、教育委員会に勤める方もいるので、お願いしようと思っている。
実際に先生に聞いたり、機会があれば、その現場に同行させてもらったりできないだろうか。。。そんな感じだ。
あとは、老人ホームや介護施設への訪問。
おじいさん、おばあさんの中には、戦争について語りたがっている方も少なくないと聞いた。
職員の方にお願いして、語りたがっているご老人を紹介してもらって、その方のお話を聴きたいな、と思う。
語りたがっている方は、恐らく、職員の方に語っているだろうし、職員の方にお願いしたら・・・と。
正直、迷惑必死の活動ではあると思うが、熱意が伝わるまでは「迷惑承知で食らいついたらいいんじゃないか」と、とある先生に言われた。
易々と引き下がるようなら、熱意もその程度、そう理解されてもおかしくないよ、と。
確かに、とてもデリケートな問題なため、「程度」ってものがあるが、謙虚に、真摯に、前向きに熱意を伝えていこうと思う。
とにかく、危険を上手に回避しながら、深いところまで到達しようと思ったら、並大抵の努力では到底不可能。
精神的にやられるかもしれない。
でも、やっぱりここまで来た以上、それなりの覚悟は出来ている。
小さな一歩が大きな成果へ。
とにかく、コンタクトを取って、自らの足で自らの先を切り開いていこうと思う。
これについて実感したのは、各地の友達に、義務教育時代の平和学習で何をしたかを聞いたときに改めて痛感した。
私の通っていた学校では、平和学習っていうものは殆どといっていいほど行われていなかった。
「おじいちゃん、おばあちゃんに、戦争の話を聴いてきましょう」
というくらい。
しかし、広島や長崎、沖縄の友達に聞くと、全然違う。
毎年毎年、みっちりと平和学習の時間が設けられている。
そして、戦跡があるという理由からか、現地での活動も行われている。
地域によっての平和学習の格差。
これを痛感している。
沖縄に折角いるのだから、小学校や中学校にお願いして、平和学習の指導について先生方にお話を聴いたりしたいな、とおもった。
幸い、沖縄の知り合いの中には、中学校校長を務めた方や、教育委員会に勤める方もいるので、お願いしようと思っている。
実際に先生に聞いたり、機会があれば、その現場に同行させてもらったりできないだろうか。。。そんな感じだ。
あとは、老人ホームや介護施設への訪問。
おじいさん、おばあさんの中には、戦争について語りたがっている方も少なくないと聞いた。
職員の方にお願いして、語りたがっているご老人を紹介してもらって、その方のお話を聴きたいな、と思う。
語りたがっている方は、恐らく、職員の方に語っているだろうし、職員の方にお願いしたら・・・と。
正直、迷惑必死の活動ではあると思うが、熱意が伝わるまでは「迷惑承知で食らいついたらいいんじゃないか」と、とある先生に言われた。
易々と引き下がるようなら、熱意もその程度、そう理解されてもおかしくないよ、と。
確かに、とてもデリケートな問題なため、「程度」ってものがあるが、謙虚に、真摯に、前向きに熱意を伝えていこうと思う。
とにかく、危険を上手に回避しながら、深いところまで到達しようと思ったら、並大抵の努力では到底不可能。
精神的にやられるかもしれない。
でも、やっぱりここまで来た以上、それなりの覚悟は出来ている。
小さな一歩が大きな成果へ。
とにかく、コンタクトを取って、自らの足で自らの先を切り開いていこうと思う。
mixiだったり、沖縄来て色んな人と話して思ったこと。
沖縄戦に対して興味を持っている人の量について。
正直、そんなに居ないと思っていた。
京都に居ても、実家に居ても、そんなに居なかった。
でも、mixiで出会った人の多くに、沢山の同士がいる。
沖縄に来てたまたましゃべった人が、沖縄戦に物凄い知識や考えを持っていたり。
何となく、安心というか、心強いというか・・・。
しかし、逆も然り。
全く興味が無い人もいるし、昔の事だから、そこまで深く考えた事はない、っていう人も居るもの事実。
まぁ、個人の考えとか興味のベクトルの違いだから何とも言えないんだけどね。
でも、私の活動について否定的な人は、いまのところまだ会ってない。
「凄いね」って言われることが多いけど、正直自分が凄い事してるとは思ってない。
興味があるからやってるだけで、ダイビングとか音楽とか、そういうのを極めようとしてる人と変わらない。
ベクトルの違いっていうだけの話。
辛い事も多いけど、自分が興味を示す先に向う。
これが一番幸せなことだなぁ、って実感。
沢山の人の応援と支援を戴いて、本当に充実した毎日を送っている。
そして、沢山の同士との意見交換。
自分の考えが浅はかだと思い知る事も多いが、それによって自分の感性も磨かれると実感する。
人に自分の意見を言うことによって、自分の考えが纏まる事も多い。
沖縄に居て有意義な意見交換を出来る場は・・・少ない。
沖縄在住の知り合いで、沖縄戦研究をしている方は、皆60歳以上の方ばかり。
自分の意見をいうこともあるが、基本的にはその方々のお話を聴いて質問したりするばかり。
ブログやmixi、そして電話での意見交換。
現在はこれらの手段によって自分の意見を述べたり、それに対しての意見をもらったりしている。
これからも活動を続け、たくさんの方々と意見交換をしていきたい。
ここを読んでくださっている皆さん。
私の浅はかな知識ではありますが、間違った見解にはどんどん突っ込んでください。
そして、思ったことを書き込んでいただけたら幸いに思います。
まだまだ未熟な私ではありますが、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!!!!!
沖縄戦に対して興味を持っている人の量について。
正直、そんなに居ないと思っていた。
京都に居ても、実家に居ても、そんなに居なかった。
でも、mixiで出会った人の多くに、沢山の同士がいる。
沖縄に来てたまたましゃべった人が、沖縄戦に物凄い知識や考えを持っていたり。
何となく、安心というか、心強いというか・・・。
しかし、逆も然り。
全く興味が無い人もいるし、昔の事だから、そこまで深く考えた事はない、っていう人も居るもの事実。
まぁ、個人の考えとか興味のベクトルの違いだから何とも言えないんだけどね。
でも、私の活動について否定的な人は、いまのところまだ会ってない。
「凄いね」って言われることが多いけど、正直自分が凄い事してるとは思ってない。
興味があるからやってるだけで、ダイビングとか音楽とか、そういうのを極めようとしてる人と変わらない。
ベクトルの違いっていうだけの話。
辛い事も多いけど、自分が興味を示す先に向う。
これが一番幸せなことだなぁ、って実感。
沢山の人の応援と支援を戴いて、本当に充実した毎日を送っている。
そして、沢山の同士との意見交換。
自分の考えが浅はかだと思い知る事も多いが、それによって自分の感性も磨かれると実感する。
人に自分の意見を言うことによって、自分の考えが纏まる事も多い。
沖縄に居て有意義な意見交換を出来る場は・・・少ない。
沖縄在住の知り合いで、沖縄戦研究をしている方は、皆60歳以上の方ばかり。
自分の意見をいうこともあるが、基本的にはその方々のお話を聴いて質問したりするばかり。
ブログやmixi、そして電話での意見交換。
現在はこれらの手段によって自分の意見を述べたり、それに対しての意見をもらったりしている。
これからも活動を続け、たくさんの方々と意見交換をしていきたい。
ここを読んでくださっている皆さん。
私の浅はかな知識ではありますが、間違った見解にはどんどん突っ込んでください。
そして、思ったことを書き込んでいただけたら幸いに思います。
まだまだ未熟な私ではありますが、今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!!!!!
先日来沖した、Aちゃんと話したことです。@ギーザバンタ。
今回のタイトル、 「点」と「線」 。
これが指すのは、戦争を見る際の観点のことです。
ギーザバンタで話した時は、原爆についての「点」と「線」でした。
「点」・・・個人の命、個人の戦争体験談から見る平和
「線」・・・現在、過去、未来を通して見る平和
原爆を落とした米兵は、原爆投下時にどんなことを考えていたのだろうか…。
そんな話から発展した話題だった。
兵士はとあるドキュメンタリー番組で堂々と「俺たちが原爆を落とした。」と言ったそうだ。
多くの米軍人たちは、 「自分たちが原爆を落としたから戦争は終わった。落さなかったら、もっとたくさんの犠牲が出た」 と考えているそうだ。
彼らは軍人である。そこで、メディアでの発言なども規制されることが多いと予想される。
いくら「落とした事を後悔している」と思っていても、そんなことをメディアで発言する事は、軍が許さないであろう。
アメリカを勝利に導いた英雄が、そんなことを言っては、国民たちの尊敬の念が薄れてしまう。
反発も起きるかもしれない。
全て私の予想ではあるが、そう思う。
そこで、軍人たちの発言について考えてみた。
原爆を落とした事によって、確かに戦争は終わった。
しかし、日本は原爆を落とされる前、もっと言えば沖縄戦開戦前から、敗北は明らかな状況であった。
昭和天皇はじめ、日本軍のトップの多くは、それでも戦争を続けた。
そして多くの犠牲者を出した。
原爆を落とした事は、戦争に決定的な終止符を打った。
しかし、それによってどうなったのか。
それを考えた。
まず、忘れてはいけないこと。
多数の犠牲者、被爆者、被爆者2世・3世を生んだ。
そして、広島・長崎の全てを奪いつくした。
しかし・・・。
この原爆投下は、アメリカにとって実験であった。
極秘裏に、無人島や砂漠で実験を行っていた。最終的に、人間が住む市街地での実験として、日本に投下したのだ。
どちらかというと、戦争を終わらせるために落としたというよりは、アメリカの実験としてちょうど良かったから落とした。
そういってもいいのかも知れないとも思った。
日本への原爆の投下。それによって、核爆弾の威力などが実証されて、世界的に核禁止の動きへと展開した。
今現在、核保有国はあれど、戦争によって核爆弾を使用する事は反対されている。
ヒロシマ・ナガサキへの原爆の投下は間違っていなかった。
軍人たちはそういう。
私はAちゃんと討論して、初めてといっていいほど、原爆投下の正当性について考えたかもしれない。
ヒロシマ・ナガサキ原爆が落とされた事によって、たくさんの犠牲者が出た。
確かに実験の名の元に奪われた命に対して、間違っていなかったの一点張りの米軍に対してどんな気持ちになるのか、想像は安易である。
しかし。
彼らの犠牲の元に生まれた世界的な「核反対」の動き。
日本でなくても良かったのではないか。
無人島や砂漠での実験で、危険性などは計り知れるものではなかったのか。
そうい考えたらきりがない。
しかし、アメリカの学者たちが「市街地での実験」により得た結果というのは、自分たちの想像を超える結果でもあったのではないだろうか。
事実、62年前のヒロシマ・ナガサキへの原爆投下以来、世界各国で多くの戦争が勃発しているが、核が使用された戦争は(その使用の可能性が示唆された事はあったが)起こっていない。
核保有国はあれど、戦争での使用はまだ無いのだ。
これは、ヒロシマ・ナガサキの犠牲の下にあるものだ。
「点」という個人で見た原爆で言えば、この実験は人体実験といえる人道を外れた行為である。
それによって奪われた尊い命。
悲観的な歴史の一ページである。
しかし「線」で見た原爆。ヒロシマ・ナガサキの犠牲により、世界の戦争から核が排除されている。
犠牲のうえに、悲惨な「核戦争」が行われずに62年という年月が過ぎてきた。
原爆の恐怖を世界中に知らしめたのだ。
これにより、核戦争の犠牲者は無い。
彼らの犠牲のお陰で、第二の犠牲者・犠牲国が出ていないのだ。
確かに、その犠牲がヒロシマ・ナガサキでなくても良かったのではないかとも思うが、彼らの死には、意味がある。
彼らの死によって、核排除の動きが出た。
世界平和への一歩。
私はそう考えた。
何時の日か、世界中から核が無くなり、「NO MORE HIROSIMA,NO MORE NAGASAKI」という言葉自体をもなくなるような世の中、核の存在自体が完全に否定される世の中になることを願ってやまない。
今回のタイトル、 「点」と「線」 。
これが指すのは、戦争を見る際の観点のことです。
ギーザバンタで話した時は、原爆についての「点」と「線」でした。
「点」・・・個人の命、個人の戦争体験談から見る平和
「線」・・・現在、過去、未来を通して見る平和
原爆を落とした米兵は、原爆投下時にどんなことを考えていたのだろうか…。
そんな話から発展した話題だった。
兵士はとあるドキュメンタリー番組で堂々と「俺たちが原爆を落とした。」と言ったそうだ。
多くの米軍人たちは、 「自分たちが原爆を落としたから戦争は終わった。落さなかったら、もっとたくさんの犠牲が出た」 と考えているそうだ。
彼らは軍人である。そこで、メディアでの発言なども規制されることが多いと予想される。
いくら「落とした事を後悔している」と思っていても、そんなことをメディアで発言する事は、軍が許さないであろう。
アメリカを勝利に導いた英雄が、そんなことを言っては、国民たちの尊敬の念が薄れてしまう。
反発も起きるかもしれない。
全て私の予想ではあるが、そう思う。
そこで、軍人たちの発言について考えてみた。
原爆を落とした事によって、確かに戦争は終わった。
しかし、日本は原爆を落とされる前、もっと言えば沖縄戦開戦前から、敗北は明らかな状況であった。
昭和天皇はじめ、日本軍のトップの多くは、それでも戦争を続けた。
そして多くの犠牲者を出した。
原爆を落とした事は、戦争に決定的な終止符を打った。
しかし、それによってどうなったのか。
それを考えた。
まず、忘れてはいけないこと。
多数の犠牲者、被爆者、被爆者2世・3世を生んだ。
そして、広島・長崎の全てを奪いつくした。
しかし・・・。
この原爆投下は、アメリカにとって実験であった。
極秘裏に、無人島や砂漠で実験を行っていた。最終的に、人間が住む市街地での実験として、日本に投下したのだ。
どちらかというと、戦争を終わらせるために落としたというよりは、アメリカの実験としてちょうど良かったから落とした。
そういってもいいのかも知れないとも思った。
日本への原爆の投下。それによって、核爆弾の威力などが実証されて、世界的に核禁止の動きへと展開した。
今現在、核保有国はあれど、戦争によって核爆弾を使用する事は反対されている。
ヒロシマ・ナガサキへの原爆の投下は間違っていなかった。
軍人たちはそういう。
私はAちゃんと討論して、初めてといっていいほど、原爆投下の正当性について考えたかもしれない。
ヒロシマ・ナガサキ原爆が落とされた事によって、たくさんの犠牲者が出た。
確かに実験の名の元に奪われた命に対して、間違っていなかったの一点張りの米軍に対してどんな気持ちになるのか、想像は安易である。
しかし。
彼らの犠牲の元に生まれた世界的な「核反対」の動き。
日本でなくても良かったのではないか。
無人島や砂漠での実験で、危険性などは計り知れるものではなかったのか。
そうい考えたらきりがない。
しかし、アメリカの学者たちが「市街地での実験」により得た結果というのは、自分たちの想像を超える結果でもあったのではないだろうか。
事実、62年前のヒロシマ・ナガサキへの原爆投下以来、世界各国で多くの戦争が勃発しているが、核が使用された戦争は(その使用の可能性が示唆された事はあったが)起こっていない。
核保有国はあれど、戦争での使用はまだ無いのだ。
これは、ヒロシマ・ナガサキの犠牲の下にあるものだ。
「点」という個人で見た原爆で言えば、この実験は人体実験といえる人道を外れた行為である。
それによって奪われた尊い命。
悲観的な歴史の一ページである。
しかし「線」で見た原爆。ヒロシマ・ナガサキの犠牲により、世界の戦争から核が排除されている。
犠牲のうえに、悲惨な「核戦争」が行われずに62年という年月が過ぎてきた。
原爆の恐怖を世界中に知らしめたのだ。
これにより、核戦争の犠牲者は無い。
彼らの犠牲のお陰で、第二の犠牲者・犠牲国が出ていないのだ。
確かに、その犠牲がヒロシマ・ナガサキでなくても良かったのではないかとも思うが、彼らの死には、意味がある。
彼らの死によって、核排除の動きが出た。
世界平和への一歩。
私はそう考えた。
何時の日か、世界中から核が無くなり、「NO MORE HIROSIMA,NO MORE NAGASAKI」という言葉自体をもなくなるような世の中、核の存在自体が完全に否定される世の中になることを願ってやまない。
きましたよ、この季節が…。
沖縄、入梅
これによって、色々と弊害が…。
間違いなく湿気の恐怖。
そして、害虫・カビの被害。
何より、私にとって痛手なのが…。
壕巡りできない…。
戦跡巡りはまぁまぁいけるでしょう。
でも、壕はリアルに命がけになるんです。
ガマの中っていうのは、何と言っても自然壕のため小川が流れてたりするんです。
で、鉄砲水とかもあるんです…。
一人で活動してる以上、危険が今まで以上に増える。
そして、ハブ大発生の時期
だったりするんですよね。
正直、今が一番ガマに入りたい時期なんです。
60年前のこの時期、沖縄戦が激化していきました。
当時の県民・日本軍が身を潜めていたガマの中の環境を知るためにも、同じ時期にガマに入る事が感覚的に一番感じる事ができるんです。
管理壕(豊見城市・旧海軍司令部壕など)は、空調もしっかりされているため、当時の過ごしにくさは体験することは出来ません。
しかし、当時のままの壕に関しては、60年経過した今でも、近い状況を体験する事は可能です。
とある文献で読んだ記事では、こんなことが書いてありました。
「壕の中の湿度は、殆ど100%。それに、血や膿、排泄物や死臭が混じり、たまらない状況だった。」
そうなんです。
ただでさえ湿度の高い沖縄の梅雨。それに加えて、ガマや壕の中というのは換気も出来ず、通気性も最悪。
そして、最悪の場合、有毒ガスが発生している場合もある。
そんな環境の中での不眠不休の作業や、1秒後の命の保証も無い状況。
普通の精神状態で居られるはずがありません。
とにかく、この時期は管理壕以外は入壕せず、別の活動に専念しようと思います。
命あっての研究。
壕に行く以外にもやる事、出来る事は沢山ある!!
とにかく、室内でも出来る事、雨が降っていても出来る事をどんどんやっていこうと思う。
沖縄、入梅
これによって、色々と弊害が…。
間違いなく湿気の恐怖。
そして、害虫・カビの被害。
何より、私にとって痛手なのが…。
壕巡りできない…。
戦跡巡りはまぁまぁいけるでしょう。
でも、壕はリアルに命がけになるんです。
ガマの中っていうのは、何と言っても自然壕のため小川が流れてたりするんです。
で、鉄砲水とかもあるんです…。
一人で活動してる以上、危険が今まで以上に増える。
そして、ハブ大発生の時期
だったりするんですよね。
正直、今が一番ガマに入りたい時期なんです。
60年前のこの時期、沖縄戦が激化していきました。
当時の県民・日本軍が身を潜めていたガマの中の環境を知るためにも、同じ時期にガマに入る事が感覚的に一番感じる事ができるんです。
管理壕(豊見城市・旧海軍司令部壕など)は、空調もしっかりされているため、当時の過ごしにくさは体験することは出来ません。
しかし、当時のままの壕に関しては、60年経過した今でも、近い状況を体験する事は可能です。
とある文献で読んだ記事では、こんなことが書いてありました。
「壕の中の湿度は、殆ど100%。それに、血や膿、排泄物や死臭が混じり、たまらない状況だった。」
そうなんです。
ただでさえ湿度の高い沖縄の梅雨。それに加えて、ガマや壕の中というのは換気も出来ず、通気性も最悪。
そして、最悪の場合、有毒ガスが発生している場合もある。
そんな環境の中での不眠不休の作業や、1秒後の命の保証も無い状況。
普通の精神状態で居られるはずがありません。
とにかく、この時期は管理壕以外は入壕せず、別の活動に専念しようと思います。
命あっての研究。
壕に行く以外にもやる事、出来る事は沢山ある!!
とにかく、室内でも出来る事、雨が降っていても出来る事をどんどんやっていこうと思う。